ツーリング・レポート「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
「vol.402 ドストエフスキー著・原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』(新潮文庫)を再読して」からの続きで、ゾシマ長老には名言が多くて、どこを引用したら良いのか、本当に迷うけれど、たとえば…
神父諸師よ、「地獄とは何か?」とわたしは考え、「もはや二度と愛することができぬという苦しみ」であると判断する。かつて、時間によって空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的な存在が、地上へ出現したことによって「われ存す、ゆえに愛す」と自分自身に言う能力を与えられた。そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた…
以下、ストーリーを順に追うと、ゾシマ長老の遺体から腐臭が出て、一本の葱(「蜘蛛の糸」と同様のエピソード)、ガリラヤのカナ(『聖書』の朗読)と続く。そして、アリョーシャがゾシマ長老の言葉に従って、僧庵から出ると、突然、大地にキス。
私生児で召使いのスメルジャコフが、フョードルを殺害して、物語は核心部分に突入する。
舞台はモークロエ(地名)へと移り、ミーチャが父親のフョードルを殺害した容疑者となる。
続いて、予審が行われた。その最中に、凍える童(わらし)の夢を見たミーチャが父親殺しの(無実の)罪を被って、生きて行く決心する場面が印象的だ。ぜひとも紹介しておきたい。
夢の中。ミーチャが曠野(こうや)を馬車で走っていると、焼失した部落の入口で、焼け出された母親たちが、凍えた子どもを抱いて一列に並んでいた。馭者がお国訛りの百姓言葉で、「童(わらし)が泣いてますんで」と教える。「いや、そのことじゃないんだ」とミーチャが答えて、話を続けた。「教えてくれよ。なぜ焼け出された母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。…
ミーチャは、もう二度と童が泣いたりせぬよう、乳房のしなびた真っ黒の童の母親が泣かなくてもすむよう、今この瞬間からもはやだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに、みんなのために何かしてやりたくてならない。
「あたしもいっしょよ。これからはあなたを見棄てはしない。一生あなたといっしょに行くわ」と感情のこもったやさしいグルーシェニカの言葉が、すぐ耳もとで聞こえる。とたんに心が燃えあがり、何かの光をめざして突きすすむ。生きていたい、生きていたい、よび招くその新しい光に向って、何らかの道をどこまでも歩きつづけて行きたい、それもなるべく早く、一刻も早く、今すぐに、たった今からだ!
夢から覚めたミーチャは新しい顔つきになっていたのだった。
物語は第四部の下巻を残すだけになりました。これで同文庫の上巻と中巻を取り上げましたが、下巻の感想についても、またいつかの機会に記せればと思います。
「東海・旅の足跡」は東海地区で発売されている月刊誌『バイクガイド』に連載中のツーリング・レポートです。ご一読いただき、ご感想をお寄せいただければ幸いです。
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