ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
僕には好きな言葉と嫌いな言葉がある。文章を書くときにも、それは意識していて、好きな言葉は気に入っている証拠で、文中に頻繁に出てくる。多くの人が好ましくないと思っている言葉でも、僕には好きな言葉があり、「後悔」はそれにあたる。「死」を連想する言葉も本質を突くことから、僕は決して嫌いではない。
反対に嫌いな言葉は「現実」と「途中」で、これほど恐ろしくて、重い言葉はない。自分の力では、どうしても変えられないものが、そこにはあって、(まるで底なし沼に落ちて行くような)言葉の重力みたいなものを感じる。一度は経験しているけれども、再度、何の前触れや心構えもなく、それらがやって来たとしたら、僕には二度と耐えきれる自信がない。それほど恐ろしい。
「不安」な気持ちなどは言葉が救ってくれる(正確には「救ってくれる言葉がある」かもしれない)。誰かが誰かのために発する言葉の中には、慰めてくれたり、勇気をくれたりする言葉もたくさんあることは言うまでもない。
他の人のことは知らないけれど、僕に限って言えば、何のために言葉を書くのか、という疑問は、誰のために言葉を書くのか、という質問に置き換えることができる。相手を退屈させたり、ましてや傷つけてはいけない。僕が書く言葉は、誰かを守ったり、誰かを楽しませたりするためにあると思っている(この場合の誰かと言うのは、僕が大切に思う人のことです)。
以下は余談。
集英社『kotoba』の最新号に長谷川公茂先生が撮影した円空仏(荒子観音寺所蔵の木端仏)の写真が掲載されています。
下の写真が最新号の表紙です。
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