2018年1月27日土曜日

vol.1574 久しぶりの休日にショッピング

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 今日は久しぶりの休日だったことから、栄地区へショッピングに行きました。
 僕がいの一番に向かったのは、やっぱり「ZARA(ザラ)」。
 

 「若作りしすぎじゃね」という外野からの声がどこからともなく聞こえてきそうですが、いつもながらそれは聞こえないふり。
 身長178センチ、体重55キロの僕にとって、ファストファッションのブランドで、一番満足度の高いのがZARAだから。ちなみに、「H&M」と「GAP」の服は好きじゃないし、似合わないから、買いません。
 ファッションは年齢相応に、とも思いますが、百貨店などに入っている高級ブランドには、残念ながら縁が無いというか、あまり魅力を感じません。例えば、Dolce&Gabbana(ドルチェ&ガッバーナ)などの高級ブランドは確かに素晴らしいと思いますが、そこまでのファッションセンスにはこだわりません。
 閑話休題。
 友人知人から、「その服、どこで買ったの」と質問されることから、こうした話題を書いてみたけれど、誰も中年男のファッションになんか、興味ないだろうと思いつつ、下の写真は今日買ったコートです(参照)。
 

 アシンメトリーながらも、それでいて物凄くシンプルなデザインで、カッコいいな、と。ライトグレーは色の組み合わせが簡単で、春先まで長く着れます。
 他にも、僕の定番というか、ユニフォームになっている無地のオックスフォードシャツで、下の写真にあるように春先に似合うきれいめな一着を買いました。
 

 ウインドーショッピング以外にも、栄地区を一日中、歩きまわっていたことから、帰宅したら、足首が痛くなってしまい、やっぱり歳だな、と。

 以下は余談。
 本当に久しぶりに休日らしい過ごし方をして、見慣れたはずの栄の街並みがいつもと違って見えたりと、こんなふうに当たり前に過ごす時間をずっと忘れていました。

2018年1月25日木曜日

vol.1573 交通事故の目撃

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 今朝、名古屋市内を走っていた際に、スリップ事故の現場を目撃してしまい、少しばかり肝を冷やしました。
 下の写真がそれで、偶々バックミラー見ており、一部始終を目撃したのですが、隣の車線の斜め後ろを走っていた青色のトラックがふらふらとスリップして、真後ろを走っていた黒色の乗用車に体当たりするようにぶつかった瞬間、「ガシャン」という大きな音が聞こえました。
 

 先週も乗用車同士の接触事故を目撃したことから(その際の「ガシャン」という大きな音が今も耳に残っています)、何か憑いているのか、気を引き締めなければ。

 以下は余談。
 下の写真は今日の記憶で、前回時(vol.1569)と同様、体調が優れなかったことから、情けないことに全然頭に入りませんでした。
 

2018年1月24日水曜日

vol.1572 晴れのち雪と阿弥陀様の御用

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 今日は江南市と一宮市へ行きました。
 午前中は下の写真にあるようにすいとぴあ江南へ立ち寄った後、所用を済ませました。
 

 午後からは長谷川公茂先生とお会いして、打ち合わせを兼ねた円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 その際、国道155線バイパスを走ったのですが、周囲は雪がしっかりと積もっていました。
 

 以下は余談。
 僕には僕にしかできない、やらなければならない阿弥陀様の御用がまだいくつもあるんだ、と。

2018年1月21日日曜日

vol.1571 過去と未来をつなぐ唯一のそれは漠然とした悲しみ

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 今日の午前中は所用で日進市へ行き、途中、尾張旭市にある愛知県森林公園へ立ち寄りました。
 下の写真がそれで、公園内にある芝生の広場では、親子連れが楽しそうにボール遊びなどをする姿を目にしました。
 

 僕にもたしかそんなことがあったはずで、40年前くらいだろうか。幼少の頃の情景は過ぎ去ってしまえば、一瞬のことのようにしか、思い出せない。現在の僕はと言えば、子どもがいない。だから、僕の頭の中で描ける情景には、子どもからの視点はあっても、悲しいかな、父親としての視点がない。過去と現在は確かにつながっているけれど、それが未来へ続くとは限らないことを、またこうして実感して、心が打ちひしがれる(僕が甥っ子と姪っ子の世話を焼くのが好きな理由は上記にあると気が付いています)。
 誰の目にもありふれた平和な光景(休日の公園で親子連れが楽しくボール遊びをする)として見えるはずが、僕の目にはそうは映らない。僕と同じような気持ちになる人が他にも少なからずいるのだろう。そうした人がいたら、ぜひ会って、その人の話を聞いてみたい。何を夢見たり、どんなことを心の支えにして生きているのか。

 以下は余談。
 風邪の症状が続いており、頭の中が整理されておらず、ブログに付けるタイトルが最も長くなってしまった。僕の心の支えは自身の内なる力(自分を信じること)です。

2018年1月20日土曜日

vol.1570 可児市 荒川豊蔵資料館

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 今日の午後は可児市にある荒川豊蔵資料館へ久しぶりに足を運びました。
 

 荒川豊蔵資料館では、「豊蔵の世界 vol.8 赤 志野の緋色と赤絵」展が行われており、学芸員さんが作品の見どころを紹介するギャラリートークに参加して、豊蔵先生の作品を目にしました。
 荒川豊蔵資料館はお気に入りのスポットで、過去の更新(vol.372、vol.653、vol.981、vol.1237)がそれを物語っています。

 追記
 今日は言いたいこと(話すべきこと)の半分も言えなかった。反省と言うか、後悔。僕の書く力量は平均点以上だと思うけれど、上手に話すのはやはり得意じゃないな、と。

2018年1月19日金曜日

vol.1569 昨日の記憶

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 少し前の更新(vol.1566)からの続きで、下の写真は昨日の記憶。
 

 実を言うと、昨日は(今現在も)頭痛や鼻詰まり、のどの痛みと風邪気味で、幾度書けども全然頭に入らず、反対に忘れてしまいたいことは、忘れられずにいて、人の記憶とは何と不思議なのだろうと、いつも思います(もしかして僕だけかな)。

2018年1月17日水曜日

vol.1568 安藤芳彦さんの素敵な作詞

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 前々回の更新(vol.1566)の続きで、僕が大好きなミュージシャンの故村田和人さんの話題を取り上げて、作詞に関して触れました。
 村田和人さんの楽曲の作詞は田口俊さんと安藤芳彦さんのお二人。前回は田口俊さんを取り上げたことから、今度は安藤芳彦さんを。
 ちなみに田口俊さんの作詞では、飾り気のないストレートな思いが伝わって来る「少年サイダー」が一番好きです。
 安藤芳彦さんの作詞は何と言っても、書き出しが巧み。いずれの作詞も素敵だから、とっさにどれを引用すべきか迷うけれど、いくつかをここに。

 「僕が髪を切って だいぶ変わったと 君は言うけれど 違う」(Stay The Young)
 「いつもの街角で 約束してる 土曜の午後だから 恋が気分さ」(Weekend Love)
 「少し意地悪な その話し方 何も変わらない その笑い方」(Mc’sRoadで逢いましょう)
 「幸せな夏は いつの日も 駆け足で 通り過ぎる」(Glay Sky Blue)

 僕もこうして文章を書くけれど、安藤芳彦さんのような素敵な言葉は逆立ちしても書けそうにないことから、羨ましくて、憧れてしまう。それはきっと安藤芳彦さんが素敵な生き方をされているからでしょうね。
 僕が初めて村田和人さんの歌を聴くきっかけになったのも、安藤芳彦さんの作詞した「一本の音楽」でした。
 と、ここまで書いてきて、村田和人さんの笑顔が頭に浮かんできて、僕は不覚にも涙ぐんでしまい、話の続きを書けそうもありません。
 

 以下は余談。
 今朝は西の方角(神戸)へ向かって、黙とう。

2018年1月16日火曜日

vol.1567 一宮円空会と円空大賞展

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 今日の午後は一宮市へ行き、一宮市のマンホールカードをゲット。続けて、長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。
 

 下の写真は岐阜県美術館で来月から行われる第9回円空大賞展の案内です。
 

 会期中の来月25日には長谷川公茂先生が出演されるトークイベントがあり、足を運ぶ予定です(初日に行われる授賞式・開場式に誘われたのですが、都合により、足を運べません)。
 

2018年1月14日日曜日

vol.1566 今日の記憶

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 僕が大好きなミュージシャンの故村田和人さんの一曲に「Slide On Your Season」があり、その中に「一年ごとに 時は早く過ぎてく」という歌詞がある(作詞は田口俊さん)。僕は今、それをひしひしと肌で感じていて、今年も半月が過ぎようとしているのかと思ったら、慄然とさせられた。
 下の写真は今日の記憶で、画面を拡大すると分かりますが、文字は紙の両面、つまり裏側にも書いてあります。
 

 タイトルについて、今日の「記憶」ではなくて、正しくは今日の「記録」ではないのか、というツッコミを入れられるかもしれない。こうしてブログに書き残したとしても、僕自身、今日一日は何をしていたのかを、きっと忘れてしまうだろう。だから、記憶で正しいのだ。

 以下は余談。
 大好きな村田和人さんについて、書きたいことが山のようにある(例えば、村田さんがライブで、「愛しているよー、みんな」と叫んだ声が今も僕の耳に残っている)のだけれど、客観視できない自分がいて、まだ当分の間は無理だな、と。今日もカーステレオ(カーオーディオ)で、村田さんのCDを聴いて、元気をもらいました。

2018年1月13日土曜日

vol.1565 この世界の中の卑小な存在

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 過日の更新(vol.1553)にある余談の続きで、僕が都会を好きなのは、そうした場所で自分が育ったからだと思っていたけれど、実際はそれだけじゃなかった。
 大都会には数多の他人がいて、高層ビルの谷間や地下鉄の階段などで、そうした見ず知らず人たちとすれ違うたびに、この世界はとても広くて、その中に僕がいるんだ、ということを気付かせてくれる。
 昨年末、久しぶりに東京で丸一日を過ごしたことをきっかけに、僕は本当にちっぽけな存在で、だからこそ、自分を大切にしなければならないと再認識した。

 以下は余談。
 最初に書いたときは、上記の倍の長さの文章だったけれど、貴重なアドバイスをいただいたことから、推敲して、切り捨てた。今朝は午前3時起床で、窓の外を見たら、雪は止んでいるが、家々の屋根などにうっすらと白く積もっていた。

2018年1月12日金曜日

vol.1564 見える景色、見えない景色

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 バイクで走っているのと車で走っているのとでは、見える景色が違うと言ったら、簡単には信じてもらえないかもしれない。少し補足すると、いろんな次元で、見える景色が違う。単に目の前に映る景色から、どこまで景色が見えるかという高い次元まで、同じ道を走っていても、車の運転とバイクの運転では、まったく違っている。
 具体的なことを書いて、説明するのが最も分かりやすいから、ライダーとドライバーの両方の視点で、以下に。
 ライダーはヘルメットを被っているから視野が狭いというのは作り話だ。むしろ、ドライバーよりも、ずっと景色が見えている。カーブの先の見えない景色まで見て(想像して)走っている。もっと正確に表現すれば、何もかも見えているのだ。でなれけば、事故にあって、下手をすれば、命を失ってしまうから。
 道路を走っているのは、車やバイクだけでなく、バスやトラックと、いろいろあるけれど、どれも運転しているのは人間だ。「当たり前だろ、そんなことは」と思われるかもしれない。が、バイクで道路を走っている際に、僕が相手にしているのは、車やバス、トラックという乗り物ではなく、それを運転している人間だ(ということを常に意識せざるを得ない)。ドライバーに注意して走れば、アクシデントの大抵は防げる。仮に事故で、ぶつかって来る物体は乗り物だが、ぶつけて来る実体は人間だ。だから、僕はいつもバイクで走っている際に、車だけでなく、ドライバーまで注視している。
 ここで、ひとつ面白いことが起こる。車のドライバーには見えていないけれど、ライダーからはドライバーが丸見えだということ。もちろん、ドライバーからだって、バイクにまたがっているライダーの全身が見える。ただし、その瞬間、それと正反対のことが起こっているとは知らずに。
 こちら(ライダー)からは、ドライバーが運転中に化粧をしたり、口を開けて、会話や歌らしきものを歌っていたりと、そうしたことは、しっかり目に見えている。それ以上にドライバーの表情や視線まで見えているのだ。少し大げさに書けば、何を考えているのかも。顔を曇らせていたり、視線の先が別の方向を向いて、気を取られていたりと、見られていないと思っている(油断している)人間の表情や仕種を否応なく観察させられて、それはそれで愉快な気分になったりする。これも僕にとっては、バイクで走る楽しみの一つだ。
 今こうして書いたことが信じられない、嘘だと疑うドライバーがいるならば、ヘルメットを被っているライダーをじっと見つめたらいい。きっと視線が合うはずだから。

 以下は余談。
 連日、午前4時起床の、仮眠続きで、眠くはならないけれど、睡眠不足により、上記の文章内の「てにをは」や言葉選びが間違っていないかと、推敲するために再読してみた。が、話の出だしからして、拙い文章だと気付いて、もう書き直す気力も湧かず、そのままにした。僕の言いたかったことは、いつもブログに目を通してくださっている賢明な読者には、きっと伝わっただろうから。

2018年1月10日水曜日

vol.1563 人の表と裏には

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 どんな人にも表と裏があるのだ、と当たり前のことをここに書いても仕方ない。僕にもあるのだから。
 親しい人や有名人の顔を思い浮かべてみる。あるんだろう、人には決して見せない裏側が。
 そんなふうに考えると、少し寂しい気持ちになる。けれど、僕は寂しいと感じることができるからこそ、そこが他の生き物とは違い、人間なんだと思ってみたりする。
 前夜に悪魔と対決する夢を見て(vol.1562)、今日の午後は空き時間に仏さまを彫った。どちらが表で、どちらが裏なのかは、簡単には決めつけられない。なぜなら、その瞬間に感じたことが表だから。と、次の瞬間には裏になっている。人間の本心とはそういうものだろう。なるほど女心と秋の空と書いたら、怒られるかもしれない。
 話を戻して、下の写真は依頼があり、今日の夕方に彫った木端仏です。
 

 久しぶりに彫ったから、出来に納得せず、数も足りないので、明日また彫らなければなりません。

 以下は余談。
 このところヘビーな更新内容が続いたことから、そろそろ薄味に戻さないと。何だか怖いとか、気持ち悪いとか、そんなふうに思われて、読者に変に誤解されないように。

2018年1月9日火曜日

vol.1562 悪魔と対決する夢を見た

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 僕は何も持っていない。夢や希望さえも。だから、もしも悪魔が現れたとしても、何も持っていない僕から、何を奪うことができるのか。この地上に住んでいる大勢の人間の中で、何も持っていない僕のような人間に用は無いはずだ。
 なるほど、僕が持っているのは肉体だけだ。悪魔が奪おうとしているのは僕の声か、言葉か。それなら奪えるかもしれない。だが、僕は声を、言葉を奪われても、叫び続けるだろう、心の中で。心の声は、言葉は決して枯れたりはしない。
 悪魔よ、お前は心の奥底から出る声を、言葉を聞いたことがあるか。僕は聞いたことがあるぞ。今の僕の声が、言葉がそれだ。 

 以下は余談。
 たとえ夢の中の話であっても、僕と悪魔の戦いはどちらが勝つのか、負けるのか。分からないまま、目が覚めてしまったが、決して引き分けはあり得ないだろう。
 言うまでもなく、僕が見た夢の内容と、実在する僕自身(不器用で、バイクで走るのが大好きな男です)は別人格ですから、ご安心ください。

2018年1月8日月曜日

vol.1561 青空のベンチに腰掛けて

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 冬の朝、青空にぽっかりと白い雲が浮かんでいた。人気のない公園のベンチに腰掛けて、しばらく空を見上げていたら、雲が形を変えながら、流されて行った。
 時計の針を目にしても、ただ進むだけで、その瞬間を肌で感じることはできない。時間の流れは一定のはずなのに、驚くほど速かったり、恐ろしいほど遅かったりと、まるで魔術のようだ。
 どんなに見事な手品も種があって、それを知ってしまえば、つまらなくなるから、僕は知りたいとは思わない。けれど、時間の魔術にも、手品のような種があるのならば、それを知りたい。
 急いでいるわけじゃない。ゆっくりしたいわけでもない。時間を巻き戻したいとも思わない。ただ、落ち着いて、考える時間が欲しかっただけだ。さすれば、きっと後悔は少なかっただろう。
 昨夜、混雑した地下鉄の階段を歩いていたら、いきなり背中を突き飛ばされて、危うく転びそうになるといったことがあったけれど、今を生きていれば、そうしたことが珍しくない世界だ。
 世の中を眺めれば、金、コネ、暴力、コンピューター、汚れた政治、法律の解釈次第といったことがまかり通ってしまい、僕が大事に思っている言葉と信仰はまったく見向きもされない。
 楽しければそれでいい。なるほどそうかもしれない。苦労はしないに越したことはない(僕もそう思う)。本当に辛いことからは逃げればいい(子どものいじめなど)。悲しい出来事は忘れたらいい。
 そんなふうに生きられたなら、どんなに明るくて、楽だろう。だけど、僕にはできない。悔しいけれど。情けないけれど。どうしてもできない。苦しんだり、悲しんだりするのが人生で、そうして僕は終わって行くのかもしれない。きっと僕は後悔するに違いない。それも分かっている。
 僕にしかできないことが本当にあるとしたら、それが何かだけは、もう分かっている。簡単なことだ。自分らしく生きることだ。そして、死んで行くことだ。だから、これは僕からの少し早いお別れの言葉だ。

 以下は余談。
 公園のベンチに腰掛けて、風に流されて行った雲を見届けた後、立ち上がろうとしたら、ベンチの手すりを伝うように動いている一匹のテントウムシがいた。僕の目の前にも小さな命があった。

2018年1月7日日曜日

vol.1560 不器用な男だから

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 ずいぶん前のことだから、もう正確な日付は忘れけれど、ブログを読んでくださっている人から、艶っぽい話題が少ない、と。正鵠を射た指摘で、反論の余地がなかった。しかし、だからこそ、いつかそうした話題を書いておかなければ、(少し大げさな言い方が許されるのなら)男が廃ると、僕は肝に銘じていた。そこで、記憶の引き出しを開けて、僕自身の経験をいくつか書いてみた(vol.1545、vol.1551、vol.1558、vol.1559)。
 どんな男性なのかは連れている女性を見れば分かるとまでは言わない。けれど、どんな男性なのかは書いた女性を読めば分かるような気がする。僕には絵心がないけれど、画家(男性)の場合も、ひょっとしたら描いた女性を見れば分かるのかもしれない。ルノワールが描いた女性たちは、現代の日本では人気が高いことから、彼がどんな男性だったのだろうかと思い巡らせてみたりする。
 ルノワールは女性に囲まれて暮らすのが好きだったらしい。ルノワールの描く女性は皆、豊満だ。健康を脅かしても痩せて見せたい(その努力する姿勢は評価に値するとしても)という現代の女性と、画家の目から見た美しい女性、つまり絵のモデルとしての女性は正反対だ(どう解釈したら、いいのだろうか)。僕は木彫りをすることから、しからばマイヨールの彫刻はどうだろうか。裸婦像は太ってもいなければ、痩せ過ぎてもおらず、少しふくよかだ。やはり時代が変わったからなのか。
 閑話休題。僕の書く文章にも女性が登場するけれど、彼女たちを書くために文章を書いているのではない。そんな器用なこともできはしない。ただし、たとえ紙の上であっても、彼女たちに生命を吹き込まなければならない。それが僕の重要な役割である。そこには小手先の技術は通用しないだろう。彼女たちの人生を、その一部分でもいいから、書きたいと願っている。自分が愛した女性ならば、なおさらだ。

 以下は余談。
 僕はお手本とすべき人生の達人を知っている。小関先生(昭和9年生まれ)と長谷川先生(昭和8年生まれ)のお二人だ。僕にどれだけの時間が残されているかは分からないけれど、お二人の足元に少しでも近づくことが人生の目標の一つで、今年もその目標に向かって一歩、また一歩と進むんだ、と。
 下の写真は小関先生の著作『複眼の文化論』の目次で、僕のバイブルです。
 

2018年1月6日土曜日

vol.1559 雨が降っていました

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 昨日の更新(vol.1558)にある「以下は少し長い余談」の続きで、文末に「大学生の時、一つ年上の彼女が傘を忘れたふりをして、二人で一つの傘に入り、バス停まで歩いたことがきっかけになり、その後、付き合うようになった」と書きました。なぜ「忘れたふり」なのかと言えば、それを僕が察していたから。
 彼女は雨に降られるかもしれないというのに、うっかり傘を忘れるようなタイプではなかった。メイクやファッションセンスも素敵な上に、しっかりとした性格で、僕は女友達から彼女を初めて紹介された際に、絵に描いたような年上の美人で、少し驚きました。ただし、僕は誰に対しても、一目惚れすることはなかったので、この時点では「きれいな女性だな」といった印象しかありませんでした。
 同じ教室で一緒に週一回、講義を受けるようになって、数週間が経った頃だったように記憶しているけれど、前の講義がなかなか終わらなくて、教室の出入口で鉢合わせになった際、彼女が挨拶もそこそこに「(僕の名前)君、私のことを好きですか」と。
 突然のことで、僕は驚いてしまい、思わず「はい」と答えました(まさか美人の口から、そうした言葉が出てくるなんて)。その日はそれから何事もなかったのですが、次の週の講義が終わって、教室の外へ出てみたら、雨が降っていました。そして、冒頭の話へと戻ります。

 以下は余談。
 今、午前3時だ。昨夜から数時間だけ仮眠を取って(誰も読んでいないだろう)これを書いている。新聞配達のバイクが走って行く音が聞こえたことから、郵便受けに朝刊を取りに出た。
 

2018年1月5日金曜日

vol.1558 大瀧詠一「Best Always」を聴きながら

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 少し前の更新(vol.1554)にて、ミュージシャンの大瀧詠一さんの話題に触れました。それを読んだ人(お名前は伏せさせていただきます)が大瀧詠一さんのアルバム『Best Always』をお貸くださったことから、じっくりと耳を傾けていました。収録されているのは、いずれも名曲ながら、僕が一番好きになったのは「バチェラー・ガール」。
 理由は僕自身がバチェラーだから、というのは冗談で、素敵な曲はもちろんのこと、それに重なり合う歌詞にも脱帽です。
 お気に入りは「淋しい 雨はこわれたピアノさ 舗道の鍵盤(キー)を叩くよ」のフレーズで、オートバイで走っていると横断歩道の白い部分でスリップして、転倒する危険があることから、要注意。雨の日は濡れていて、滑りやすく、なお危険なのですが、「バチェラー・ガール」を聴くたびに、歌詞にあるような素敵な発想(イメージ)が湧くはずもなくて、ライダーである僕には逆立ちしても書くことができないな、と。
 文末になってしまいましたが、CDをお借りした感謝の気持ちをここに記しておきたいと思います(ありがとうございました)。
 

 以下は少し長い余談。
 女性と初めてデートらしいデートしたのは、十代の終わり頃で、今ではもうずいぶん前の話になるけれども、その日の天気が雨だったことだけは、はっきりと覚えている。なぜなら、僕は子どもの頃から晴れ男で、入学式や受験といった節目の日や旅行などの外出の際にも、雨に降られたことは、ほとんどなかったから。
 僕の中で、雨と恋の記憶は、いつも細い糸で結ばれている。だから、映画などでラブシーンを目にした際に、その場面で雨の降っている光景が映っていたら、どことなく切なくなる。恋に小道具があるとしたら、傘に代わるものはないだろう。もっとも今の時代では、LINEだったりするのだろうけれど、手のひらサイズの画面でやりとり(駆け引き)をしているだけでは、何だか味気ない。
 大学生の時、一つ年上の彼女が傘を忘れたふりをして、二人で一つの傘に入り、バス停まで歩いたことがきっかけになり、その後、付き合うようになった。「バチェラー・ガール」を聴いていたら、そんなことをふいに思い出して、とても懐かしい。

2018年1月3日水曜日

vol.1557 はじめに言葉ありき

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 『スター・ウォーズ』の登場人物の中で、僕が好きなのはオビ=ワン・ケノービとヨーダの二人。なのに、矛盾しているけれど、怒りや憎しみといった負の感情から生み出されるフォースのダークサイド(暗黒面)に魅力を感じる、と僕が書いたら、周囲の人たちに驚かれるだろうか。それとも、やっぱりと思われるだろうか。
 人の原動力は様々で、嬉しいや楽しいといった正の感情、「好きこそ物の上手なれ」のことわざもある。「女性は恋をするとキレイになる」と言われるように、女性の原動力には恋愛が含まれるはず。
 さて、自分の場合はどうだろうか、と考えてみたら、底知れない負の感情が己(おのれ)を最も突き動かしていることに気が付いた(と言うか、気が付いている)。なぜなら、我ながら情けないことに、僕は自分の内側から、ふいに揺り動かされる、そうした感情をコントロールできない。
 負の感情にもいろいろあって、人前でムキになったり、頭に血が上ることは、まず無いから、怒りを鎮めたりするのは、割と得意な方だろう。怒りと憎しみでは、僕は思ったよりも感情が高ぶらず、逆に冷めている(事態を冷静に分析している)自分に驚くことがある。その場で、笑いやユーモアに変えることさえある。
 しかしながら、自分の中で、後悔の念や悲しみの感情だけは別次元だ。どうしてもコントロールできない感情だからこそ、強い力に変わるのだと、そう自覚している。だからなのか、僕は悲しみを語ることが大の苦手で、これほど難しいものはない。失恋の悲しみならば、新しい恋をすれば、乗り越えられるだろう。死別の悲しみは十年、二十年と、これからの人生の中で、長い時間が解決してくれることもあるだろう。人はいつしか上手に悲しむことさえできる。
 なれど、何があったわけでもないのに、僕は言葉にできない漠然とした悲しみに襲われる。まるで暗闇の中に放り込まれたみたいに、何も見えず、何も聞こえない。孤独の檻に閉じ込められて、ただ悲しみという感情に縛り付けられて、身動き一つさえもできない。

 以下は大事な余談。
 「東海・旅の足跡」は読者を喜ばせることを第一としてきたけれど、旧臘からは自分のブログだからこそ、何の制約もなく、自分の書きたいことを書く(正確には吐き出す)、それを最優先することにした。それでも読んでくれる人がいれば、それがたった一人でも構わない。もしかしたら、一人もいないかもしれない。それでも構わない。石川啄木の『ローマ字日記』や正岡子規の随筆集ような素晴らしい文章が僕に書けるはずもないけれど、僕も文字を書くのではなく、早い話が僕の心の中にある言葉を書いてみたくなった。それがどこまで続くか分からないけれど。

2018年1月1日月曜日

vol.1556 2018(平成30)年 元旦

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 あけまして おめでとう ございます

 何かお正月らしい話題を、と考えて、少し平凡ながら、かるたの話題を。
 『百人一首』の中で、僕が最も好きな歌は阿倍仲麻呂が詠んだ「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」です。
 他に好きな歌として、山部赤人「田子の浦に~」、喜撰法師「わが庵は~」、前大僧正行尊「もろともに~」、良暹法師「寂しさに~」で、好きな歌の詠み人に天皇と姫がおらず、坊主が多いのはいかにも(世捨て人に憧れる)僕らしいかな、と。
 

 「むすめふさほせ」の中では、寂蓮法師「村雨の~」が好きで、やはり「秋の夕暮れ」は外せません。

 以下は余談。
 今年は(ここには詳しく書けませんが)例年とは違って、ある意味では、凄い初詣になりそうです。