2018年6月29日金曜日

vol.1676 ベストセラーに良書なし(『聖書』を除いて)

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 『聖書』とブルトマンの著作、及びキリスト教関係以外の本も、もちろん読んでいます。
 昨日の午前中は空いた時間を利用して、今更ですが、下の写真にあるように数年前、女性たちの間で、ベストセラーになった『フランス人は10着しか服を持たない』を読みました。
 

 本書の169ページには、「『最近なにか面白い本を読みましたか?』 知り合ったばかりの人には、こんな質問が最適だ」と書かれていました。
 

 僕は今から約30年前、既にそれ(最適な質問)と全く同じことをしていたことから、この文章を読んだ瞬間、思わず笑ってしまいました。
 『聖書』以外は、まさしくベストセラーに良書なし、です。

 補足しておくと、僕は大学へ入った際、新しく知り合ったばかりの先輩や友人たちに「最近、読んで面白かった本を教えて?」「今まで読んだ中で一番感動した本は何?」といった類の質問を繰り返していました。もちろん教授や助教授、非常勤講師にも。翌年には後輩たちにも同じ質問をしていました。
 当時100人以上に質問したはずで、その中から、僕が最も凄いなと感じた返事は、やはり恩師のK先生(教授)であり、僕はK先生の薦めてくれた作家の全集を大学の図書館で借りて、読み耽りました。
 そして、今現在、また同じ質問をしたら、僕を驚かすような返事をしてくれる人は、もうどこにもいないかもしれない。
 ちなみに僕が同様の質問を受けたら、返事はブログに何度も書いているように、「ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』」です。何だかこうして書いているうちに、『カラマーゾフの兄弟』を読み返したくなってきました。

 以下は余談。
 今日の午前中は長谷川公茂先生と打ち合わせでした。続けて、長谷川先生と一緒に昼食を食べながら、楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。

2018年6月28日木曜日

vol.1675 続 『週刊新潮』食べてはいけない「国産食品」実名リストを読んで

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 少し前の更新(vol.1662)の続きで、昨夕は『週刊新潮』に掲載された「食べてはいけない国産食品実名リスト第6弾」の記事を読みました。取り上げられていたカップラーメンはもちろん口にしていました。
 さらに今日発売の本誌には、第7弾として、老化を早めるリン酸塩入りパン全86商品の脂質ランキング、味覚破壊が進む調味料全84商品とあります。
 

 一方、同日発売の『週刊文春』には、「『週刊新潮』の食べてはいけない国産食品実名リスト」は本当に食べてはいけないのか」とあり、新潮記事に評価書を引用された内閣府食品安全委員会の困惑、東大名誉教授は「新潮記事に科学的信頼性はありません」、新潮コメント識者も「消費者の不安を煽る記事で粗がいっぱい」とありました。
 

 週刊誌の記事を書く人たちは、まさに売文業で、実に大変だろうな、と。そして、『聖書』とブルトマンの著作について書かないと、今回の更新のように、その内容は週刊誌のそれよりも、薄べったくなりました。

 以下は余談。
 今朝も例によって、早起きで、小雨が降っていました。ようやくこの時間になって、雨も止み、鳥たちのさえずりが聞こえてきました。

2018年6月27日水曜日

vol.1674 『聖書』とブルトマンの著作を読んでいる理由

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 前回の更新(vol.1673)に関連して、僕が『聖書』とブルトマンの著作を読んでいる理由について。
 まず、これを先に書いておくのが正しい順番であった、と反省。さらに前回の更新(vol.1673)の前置きだけでは、読者に対して言葉が足らない、とのこと。
 たとえ分からなくても、何度も読み返して、自分なりに理解することが大事なのだ。分かったときの喜びは大きいし、真の勉強とは自分のためにするのである。間違っても(大学や国家資格などの)試験に合格するためにするものではない。ましてや偏差値は人生の指針ではない。
 少し話題が逸れるけれども、先手を打っておきたい。例えば、医学部の入試に合格するのは大変だけれども、病気を治すことができるのは医者とは限らないというのが僕自身の経験だ。また、医者に掛かっても、治らなかった人を僕は身近に何人も知っている。
 死は病気じゃないから、誰にも治せない。『ヨハネによる福音書』第一一章に記されているラザロを甦らせたイエスの奇跡を読んだときは素直に感動した。本を読んで感動する心は真の勉強によって養われるが、歳を重ねることに難しくなる(自明の理)。錆びついた心を治すのはもちろん医者ではない。
 そして、冒頭の話題に戻る。もし分からなければ、何度でも読み返せばいい。人生も同じだ。
 

 『ヨハネによる福音書』
 第一一章
 四三 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
 四四 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

 仮にあなたの愛する人が、寿命ではなく、不慮の事故等で若くして亡くなり、もしも生き返ったとしたら、その感動は奇跡と呼ぶ以外に、おそらく言葉にはできないであろう。

 以下は余談。
 今日読んだ本は藤代泰三著『キリスト教史』(講談社学術文庫)と加藤隆著『「新約聖書」の誕生』(講談社学術文庫)です。
 


 4月中旬から、これだけ多くのキリスト教関係の本に目を通していると、まるで神学部の学生になったような気分になります。

2018年6月26日火曜日

vol.1673 千面菩薩の薬師如来像を彫りました

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 連日、更新している『聖書』とブルトマンの著作に関する話題が不評である。それはもちろん、僕の筆の力不足が原因だ。けれども、いつぞやの更新(vol.1557)でも書いたように、もう誰も読んでくれなくてもいい。自分が書きたいことを書くだけだから、清々しい気分、この上なし。僕の言葉が届くべき人には、ちゃんと届いているはずだからと、そう確信している。
 唯一の心残りとしては、別のところにも書いたように、「(今現在、そして、きっと未来においても)読んだ感想を誰とも話し合えないのが、何とも寂しい。学生時代ならば、恩師のK先生と、そうした会話が弾んだはずなのに」ということ。ことブルトマンの記述に関しては、かなり高度で、高級なこと(大学の講義内容程度)を書いているつもりだけれども、どうにも伝わっていないらしく、冒頭にも書いたように、僕の筆の力不足が原因だ。
 前置きがいささか長くなってしまった。さて、本題に入ろう。
 今日の午前中は千面菩薩の薬師如来像を彫りました。
 下の写真がそれで、母親が病気の我が子を看病して、慈しむ心を、像の(顔の)表情に託して、彫りました。
 

 画像をクリックした後、ダウンロードして、像の(顔の)表情をアップでご覧いただければ、微笑んでいるのが手に取るように分かるはずです。
 薬師如来像の他にも、以前の更新(vol.1663)で触れた迦楼羅像は既に発送済みで、さらにその続きです。
 

 以下は余談。
 昨日の午後は長谷川公茂先生に随行して、円空仏の写真撮影のお手伝いをしました。
 その後、下の写真にあるように喫茶店にて、楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 

2018年6月25日月曜日

vol.1672 ZARAのサマーセール

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 少し前の更新(vol.1621)に関連して、サマーセールのお知らせが届いたことから、昨日の午後は栄にあるZARA名古屋店へ行きました。
 ニュースレターには「店舗は21日(木)スタート」とありましたが、諸事情により、すぐには足を運べませんでした。
 セールということで、店内はいつもと比較して、お客さんの数が多かったです。
 

 例によって(vol.1574)、僕の制服である無地のオックスフォードシャツを購入しました。

 以下は余談。
 大相撲の名古屋場所が近付いてきて、幟を目にするようになりました。
 下の写真は東区の建中寺にある九重部屋宿舎の幟です。
 

2018年6月24日日曜日

vol.1671 『ヨハネの第一の手紙』第三~五章(自己解説)

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 前々回の更新(vol.1669)からの続きで、『ヨハネの第一の手紙』の解釈。

 第三章
 二一 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。

 第四章
 一〇 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
 一二 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
 一五 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。

 第五章
 七 あかしをするものが、三つある。
 一四 わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
 一五 そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。
 

 第四章第一五節の「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである」は、一見すると、何でもないような言葉が、さらりと記されている。
 また、「確信」という言葉が出てくる。それも2度。まるでキーワードのようで、この言葉に特別な強さ(『ヨハネの第一の手紙』の著者の思い入れ)を感じた。

 以下は余談。
 日曜日の朝だというのに、いつものように午前4時に起きている。鳥たちのさえずりを耳にしながら。何とか暇無しとは、よく言ったものだと。

2018年6月23日土曜日

vol.1670 岐阜県博物館「兼定 刀都・関の名工」展と岐阜現代美術館「篠田桃紅 挿絵の仕事」展

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 昨日は長谷川公茂先生に随行して、関市へ行きました。
 はじめに岐阜県博物館で開催されている「兼定 刀都・関の名工」展を見学して、展示されていた土方歳三の愛刀を目にしました。
 

 併せて、企画展示室で行われていた「明治150年」展も見学。
 実を言うと、先月中旬(vol.1633)、岐阜県博物館の前学芸部長であるT様とお会いして、招待券を頂戴していたことから、足を運びました。
 続けて、昼食にと、うなぎの名代 辻屋へ行き、うな丼を食べました。
 

 うなぎは皮がパリパリで、香ばしく、とても美味しかったです。
 次に少し走って、関市文化会館へ立ち寄った後、岐阜現代美術館へ足を運びました。
 下の写真がそれで、上は関市文化会館の館内に展示されている大きな円空仏の模刻で、下は岐阜現代美術館の外観です。
 


 最後に喫茶店にて、円空さんに関する打ち合わせと楽しい円空談義で、幸せな一日を過ごしました。
 

 文末になってしまいましたが、岐阜県博物館の副館長様をはじめとして、職員の皆様には、大変お世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

 以下は余談。
 うなぎと言えば、家持が詠んだ「石麻呂(いしまろ)に われもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食(め)せ」で、石麻呂さんもきっと僕のような身体をしていたのだろう、と。

2018年6月22日金曜日

vol.1669 『ヨハネの第一の手紙』第一~二章(自己解説)

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 『ヨハネの第二の手紙』(vol.1636)と『ヨハネの第三の手紙』(vol.1635)と併せて、既に先月、読んではいたけれど、理由あって、取り上げるのが遅くなってしまった。何事も順番通りに行かないのが世の常だと。

 第一章
 一 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について
 二 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである
 三 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
 五 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。

 第二章
 二 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
 六 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
 一一 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。
 一六 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
 一八 子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。
 二四 初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。

 『ヨハネの第一の手紙』の書き出しを読んだら、『ヨハネによる福音書』の冒頭を彷彿とさせた。「言(ことば)」「命(いのち)」「光」「やみ(闇)」とあり、書いてある内容は、ほぼ同じではないか、と。
 だから、僕は嬉しくなった。なぜなら、そのどちらも暗唱したいと思うような内容が綴られていたからだ。実際に『ヨハネによる福音書』の冒頭、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」を僕は暗唱できる。
 そして、序文というものは、こういうふうに書くのだ、と教えられた気がする。言わずもがな、『聖書』は(「永遠の命」が記されている)ベストセラーだから。
 第三章以降は長文になることから、次回の更新に譲りたい。
 

 『聖書』の該当ページに関して、いつもは読み始める前に写真を撮っているのだが、今回だけは(理由あって)読み終わってから写真を撮ったことから、余白に書き込みがあって、いささか見苦しいことをお許しください。

 以下は余談。
 ほとんど毎日、こうして午前4時に起床していても、日中、眠くはならないけれど、目が疲れるのか、目の下のクマがいささか目立ってしまい、(疲れているように見えるらしく)困っている。

2018年6月21日木曜日

vol.1668 ブルトマン著「最近解明されたマンダ教・マニ教資料とヨハネ福音書」(1925年)を読んで

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 前回の更新(vol.1667)と関連して、『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されている「最近解明されたマンダ教・マニ教資料とヨハネ福音書」を読みました。
 

 本論文の意図するところは、ブルトマンの言葉を借りれば、「ヨハネ福音書の底にあの神話があることを、福音書の個々の文章に上述の諸テクストから引用された平行例を並べるという仕方で、証明してみよう(本書104ページ抜粋)」にある。そして、具体例が提示され、それぞれが比較されて、それに対してのブルトマンの釈義が述べられている。
 上記の抜粋にある「あの神話」について、話を戻し、ブルトマンの言葉を引用しておくと、

 「つまりそれ(イエスの啓示)の背後には、事実強力な神話が潜んでいるのであって、それを認識することこそヨハネ福音書の正しい理解のための第一歩なのである。それを認識する上で助けになるのは、リツバルスキーの版によって初めて実際に学問的に用いるようになったマンダ教のテクスト、ならびに新しく発見されたマニ教の資料である(本書103ページ引用)」。
 「(中略)救済神話は、簡潔に描写すれば次の通りである。すなわち、天から下った遣わされた者は、地上で捕らわれていた霊魂に、それの起源、故里及びそこへの帰還についての啓示をもたらす。遣わされた者は、地的・人間的な衣をまとって現われ、栄光の中に(天へ)上る(本書103ページ引用)」。

 であって、さらに付言すると、

 「ヨハネ福音書のイエスの姿を理解するためには、この遣わされた者の像こそが何よりも重要なのである(本書104ページ引用)」。

 となっている。
 かくして、平行例を示して、「詳論の主要な意図は達せられた(本書176ページ抜粋)」と記した後には、次のように述べられていた。

 「ヨハネ福音書は特定の文献に依存しているのかどうか、また、ヨハネ的キリスト教に影響を与えた特定の宗教共同体が検出できるかどうか、という問題である(本書178ページ抜粋)」。
 「マンダ教のテクストを読む人は、ヨハネの用語との強い文体上の親近性に気付くはずである(本書178ページ抜粋)」。

 ただし、本書の巻頭に付された解題によれば、この場合のブルトマンの釈義は、最近の研究にて否定されているらしい(事実がどうあれ、僕個人はブルトマンの釈義を善しとしている)。
 そして、本稿の結論へと続くのだが、それは書かない。その代わりに『ヨハネによる福音書』を読むにあたって、大変参考になるであろう、巻末に記された言葉を以下に引用しておきたい。

 「啓示はすべての人間的なものの否定、すべての人間的な問の拒否、すべての人間的な答の拒絶、人間自身の疑問視としてだけ示されているのである(本書183ページ引用)」。

 併せて、僕自身が本論を読んで、知りたかった答えが記されていた箇所を以下に引用して、今回のまとめとしたい。

 「彼の運命は彼らの運命であり、彼の救済は彼らの救済なのである。彼らが、忘れていた自分の故里を再び認識するならば、つまり彼らが自分の起源と自分の霊魂の運命の目標とを知るならば、彼らはすべての『知識』を所有しているわけだし、その知識がすなわち彼らの『救い』なのである(本書182ページ引用)」。

 最後に、例によって、ブルトマンは1884年生まれだから、41歳の時に発表した論文である。

 以下は余談。
 今日は夏至。いつもの時間に起床しても、外が明るいから、寂しくなくていい。

2018年6月20日水曜日

vol.1667 続 ブルトマン著「福音書の考察若干」(1928/30年)を読んで

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 前回の更新(vol.1666)からの続きで、ブルトマンの論文「ヨハネ福音書の考察若干」におけるBの「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」について。
 論文は杉原助訳『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されています。
 

 前回の更新(vol.1666)で取り上げたAの「真理」と、今回取り上げるBの「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」を比較すると、こちらが僕にとって求めている内容でした。

 神が現われることがあっても、その場合もその顕現は秘密に包まれている。彼は姿を人間に変えてしか現われないし、その真の本質を何となく感じとらせるだけである。忽然とその姿が消えるので、最後になって、出会った相手が神であったとわかるのである(本書290ページ引用)。

 『ヨハネによる福音書』
 四・二六 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
 八・二五 そこで彼らはイエスに言った、「あなたは、いったい、どういうかたですか」。イエスは彼らに言われた、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。
 九・三七 イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
 一四・九 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

 つまり、神を見ることができない理由は、科学的にでなく、宗教的に考えられているのである(本書291ページ引用)。
 人間は誰も神を見ることはできない。なぜなら、同一物は同一物によってしか認識されないからである。したがって、神を認識したいと思う者は、新しい目を与えられ、変えられねばならない(本書295ページ引用)。

 僕が思うに、神は(当然ながら)見えないのだ。だから、神を内面化して、確信すれば、啓示によって、いつでもどこでも見えるのだ、と気がつきました。
 『ヨハネによる福音書』にも、確かにそう書かれています。
 それは「光」である、と。

 『ヨハネによる福音書』
 八・一二 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 九・五 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
 一二・三五 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
 一二・三六 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

 最後に、僕から付け加えておくことがあるとしたら、ブルトマンは1884年生まれだから、46歳の時に発表した論文であり、以前の更新(vol.1654、vol.1655、vol.1656)で取り上げた『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)の予備研究であることは言うまでもない。

2018年6月19日火曜日

vol.1666 ブルトマン著「ヨハネ福音書の考察若干」(1928/30年)を読んで

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 前回の更新(vol.1665)と関連して、『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されている「ヨハネ福音書の考察若干」を読みました。
 「ヨハネ福音書の考察若干」はその内容が大きく2つに分けられて、A、「真理」。B、「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」となっていた。
 今回の更新では、Aの「真理」について述べてみたい。
 

 Aの真理についても、その内容が2つに分けられて、1、旧約聖書およびその影響下における真理概念。2、ギリシア文献とヘレニズム文献における真理となっていた。

 旧約の「真理」の概念の問題性はXXL(七十人訳ギリシア語旧約聖書)がヘブル語の「エメト」を、「真理、真実」とも、「真実、信仰」とも訳すことができる、という点に示されている。したがって「エメト」の基本的な意味は「真理」のそれとは違ったものであるはずである。というのは、「真理」というギリシア語からは上記の多様な訳し方は理解しえないからである。したがって「エメト」の基本的意味を捉え、それをもとにして、そこから生じうる多様な訳し方を把握することが大切になる(本書225ページ引用)。

 本論では「エメト」の語源、意味、用法等について、丹念に記されていた。それがいかようにして「真理」と訳されているのか。ギリシア文献とヘレニズム文献において、「真理」の意味するところが(ブルトマンらしい釈義で)示されている。
 僕はブルトマンの釈義が大好きだと改めて感じた。『聖書(「ヨハネによる福音書」)』の内容はクリスチャンでない素人の僕には分からないこと(謎)だらけ。しかしながら、ブルトマンの著作を読むと、すっきりとした気分になる。いつぞやも書いたけれど、それが古かろうが、間違っていようが、自分が納得できれば、それこそが最善(真実)である。こと宗教に限っては。親鸞聖人が法然上人を信じたように。
 最後に、Bの「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」については、次回の更新で。

 以下は余談。
 今朝は目覚ましがなくても、午前4時ちょうどに目が覚めた。習慣というものは恐ろしいものだ。恐ろしいと言えば、昨日の朝、発生した大阪北部を震源とする地震は長い間、揺れを感じた。午後になって、テレビのニュース映像を見ていたら、国立循環器病センターなど、僕にとっては懐かしい景色が映し出されていた。

2018年6月18日月曜日

vol.1665 ブルトマン著「ヨハネ福音書の序文の宗教史的背景」(1923年)を読んで

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 昨日の朝はブルトマンが1923年に書いた論文「ヨハネ福音書の序文の宗教史的背景」を読みました。論文は杉原助訳『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されています。
 以前の更新(vol.1610)にも書きましたが、僕が初めて『ヨハネによる福音書』を読んだのは高校生の頃で、今から約30年前のこと。その序文「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」は僕が『聖書』の中で、最も親しんだ箇所であり、ブルトマンがそれについて書いているとあっては、どうしても読まずにいられません。
 

 さて、論文に関しては、細部(序文)を取り上げていることから、同じ作者の『ヨハネによる福音書』全般を論じた著作『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)よりも、さらに細かな分析になっており、微に入り細を穿つようで、読んでいて、難しかったというのが、正直な感想です。
 以下は僕がいつも読んでいる『ヨハネによる福音書』口語訳の「言(ことば)」と訳されているロゴスについての話題で、興味のない人は読び飛ばしてもらっても構いません。
 ブルトマンは論文の冒頭で、以下のように提議している。「どこまでが先住のロゴスについて語っていて、どこからが歴史に登場したロゴス、すなわちイエスについて語っているのか(本書41ページ引用)」と。
 また、ロゴスはそれ以前、ソフィア(知恵)であって、知恵は預言者に霊感を与える、と述べている(本書56ページ)。

 「知恵が語ることをそれから遣わされた者が語るのであり、また逆に遣わされた者の言葉は智恵そのものの言葉なのである。遣わされた者において、知恵そのものが現われ、自己を啓示するのである。だから説教するのは知恵自らなのである(本書57ページ引用)」。
 「隠れていながらそこから繰返し地上に降りてきて、その遣わされた者、すなわち預言者の姿に化身するのは、根本的には知恵そのものなのである(本書59ページ引用)」。
 「まず最初にアダムにおいて歴史的に現われ、次いでエノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、という一連の預言者たちにおいて自己を啓示し、最後にキリストにおいて現われるのである」(本書60ページ引用)。
 「ヨハネ福音書においては、創造の神性者と啓示の神性者とが組み合わされた存在がロゴスとして登場している(本書68ページ引用)」。

 以上は僕自身が後々、内容を確かめるために簡潔にまとめた要点です。
 以下の2つは『ヨハネによる福音書』の書き手についてで、これも僕自身が後々、内容を確かめるための備忘録です。

 「キリスト者である読者は一〇~一一節からイエスの生涯の悲劇を想起させられたに違いないことは明らかであるから、著者がそれを考えなかったとは想像しにくい(本書42ページ引用)」。
 「福音書記者自身の手になる言葉は一四節から始まっているのだ、と考える、他の可能性も存在している(本書66ページ引用)」。

 また、序文とは直接関係ありませんが、文末に記されていた事柄を、これもまた僕自身が後々、内容を確かめるために。

 「だが私(筆者であるブルトマンを指す)はここでは、この福音書では第三章と第五章とにおいてこの思想圏に由来する重要な諸命題が述べられた直後に、第一章におけると同様、証しのテーマが再び現われ、洗礼者がイエスの証人としての役割を演じぬくという事実に注意を喚起するにとどめたい(本書68ページ引用)」。

 最後に、僕から付け加えておくことがあるとしたら、ブルトマンは1884年生まれだから、39歳の時に発表した論文であり、以前の更新(vol.1654、vol.1655、vol.1656)で取り上げた『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)の予備研究であることは言うまでもない。

 以下は余談。
 早起きをして(今朝は午前4時前)、近頃は少し前の更新(vol.1661)でも書いたように、こうして一銭にもならないことをしている自分を客観視したら、太るはずもないし、道理で嫁さんも貰えんはずだと、思わず苦笑しました。

2018年6月17日日曜日

vol.1664 丸栄のあゆみパネル展とエレベーターの扉絵

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 昨日のお昼休みは丸栄へ行き、少し前の更新(vol.1657)で書いた東郷青児のエレベーターの扉絵を見てきました。
 

 本来ならば、こちらが本家本元で、先に取り上げるべき。しかしながら、僕が丸栄で買い物をしたのは数回程度の記憶しかありません。
 下の写真は7階で開催されている丸栄のあゆみパネル展で、僕の興味を引いたのは「懐かしの手提げ袋コレクション」でした。
 

 会場では、今月末での閉店を惜しむ人の姿、とりわけシニアの人たちを数多く目にしました。

 以下は余談。
 百貨店の手提げ袋(包装紙)といえば、名古屋では松坂屋のカトレアを思い浮かべる人も多いと思いますが、僕が最も馴染み深いのは阪急百貨店(千里阪急)のそれです。

2018年6月16日土曜日

vol.1663 午後のコーヒーブレイク

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 前回の更新(vol.1662)からの続きで、一昨日は『週刊新潮』6/21号に掲載された「食べてはいけない国産食品実名リスト第5弾」に記載されているパンを食べていたことから、自分の食生活態度を大いに反省。
 下の写真は昨日の昼食と午後のコーヒーブレイクです。
 


 以下は余談。
 昨日の午前中は長谷川公茂先生に随行して、円空さんに関する2件の打ち合わせ。さらに昨夕は円空彫り作品の依頼で、下の写真にあるように迦楼羅像(10数体)を仕上げて、発送しました。
 

2018年6月15日金曜日

vol.1662 『週刊新潮』食べてはいけない「国産食品」実名リストを読んで

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 昨日の午後は『週刊新潮』6/21号に掲載された「食べてはいけない国産食品実名リスト第5弾」の記事を読みました。
 

 下の写真がそれで、僕は同日、リストに記載されている山崎製パンの「まるごとソーセージ」と「アップルパイ」を食べていました。
 

 自分の食生活態度を大いに反省しています。

 以下は余談。
 同じく昨日の話題で、午前中は名古屋市中川区にある荒子観音寺へ行き、国際交流基金が主催するジャポニスム2018「深みへ 日本の美意識を求めて」展へ貸与する円空仏の搬出のお手伝いをしました。
 詳細については、「円空仏彫刻・木端の会」のホームページをご参照ください(こちら から)。

2018年6月14日木曜日

vol.1661 笠井恵二著『ブルトマン』(清水書院)を読みました

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 前回の更新(vol.1660)からの続きで、R・ブルトマンその人を知りたいと思い、インターネット上の情報では当てにならないことから、笠井恵二著『ブルトマン』(清水書院)に目を通しました。
 

 「はじめに」と題して、著者の言葉が記されている。その文末を引用すると、「(中略)信徒の中にはブルトマンというと、不信仰の権化であるかのように非難する人もいた。しかしほとんどそのような人々は『非神話化』という言葉以外にブルトマンについては何も知らずに彼を非難していたのである。この小著が、そのような人々にも、ブルトマンが生涯をかけて追求したものが、本当はどのようなものであったのかを伝えることができたなら幸いである」と記されていた。
 

 本書を読んで、ブルトマンの研究とその人柄を知ることができた。とりわけ項目を挙げるとすれば、「弁証法神学運動への参加」と「画期的な『イエス』」、「ブルトマンの歴史観」について、勉強になり、大いに参考になった。

 以下は余談。
 こんな時間(午前3時過ぎ)に寝ずに起きて、一銭にもならないことをしている自分が、実に僕らしいな、と。

2018年6月12日火曜日

vol.1660 ブルトマン著『ヨハネの福音書』を読了しました


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 以前の更新(vol.1654、vol.1655、vol.1656)で紹介して、先月末から読んでいたブルトマン著『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を昨夕、読了しました。
 クリスチャンではない僕に、いかほど内容を理解できたか。疑問の残るところではあるけれど、とにもかくにも、こんなに読み応えのあった本は実に久しぶりで、まるでクラシック音楽を聴くような読書の楽しさ(奥深さ)を堪能しました。
 本書をちゃんと読み込んだ証拠に、と言っては変ですが、本文中の間違いを見つけました。
 下の写真がそれで、余計な「は」があります。
 

 僕の人生の中で、これだけ多くのギリシア語に目を通したのは初めての経験で、「δσξα」(栄光)など、いくつかの単語を(否応なく)覚えました。
 さらに気になった箇所を再読して、理解の度合いを深める予定です。

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会の講座へ顔を出しました。
 

2018年6月11日月曜日

vol.1659 絶対に痩せられる健康的なダイエット

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 「どうやったら、痩せられますか」。
 初対面の女性から、開口一番、僕が決まって受ける質問だ。
 健康的なダイエットに関しては、必ずしもスポーツジムに通う必要はないし、RIZAP(ライザップ)などの高価なトレーニングなんて、まったく不必要。そう断言できる。
 早起きして、一日三食ちゃんと食べて(お菓子を食べてもよい)、タバコとお酒を一切飲まず(コーヒーや炭酸ジュースは飲んでもよい)、とりたてて運動はせずとも(太っている人には、ジョギング等は逆効果)、普段から面倒臭がらずに動いて、他人に気を遣う(具体的には自分のことを後回しにする)だけで、太りはしないし、今よりも確実に痩せられる。
 下の写真は今朝、量(はか)った僕の体重で、約50キロでした。
 

 僕は身長が178センチで、体脂肪率は常に10パーセント以下。上に書いた言葉は僕自身が実践して、証明済みです。ちなみに僕は決して太らない体質(痩せ体質)ではありません。
 最後に冒頭の質問に関して、奥の手を披露すると、僕の周囲を見渡せば、女性は年齢に関係なく、本気で恋をしたら、もっと簡単に痩せられる(これは僕にはできないけれど、僕が知る最も凄い技です)。
 本気で、ですよ。

 以下は余談。
 ダイエットが続かない人は、今までの方法が間違っているだけ。とりわけ女性に多いと思いますが。痩せたら、着てみたい服をちょっと想像してみてください(参照)。

2018年6月9日土曜日

vol.1658 八木谷涼子著『もっと教会を行きやすくする本』を読んで

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 先月からは『聖書』の話題が続いて、それに伴い、最近はその周辺をうろうろと徘徊するようになっている。ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)もその1つであり(引き続き読んでいます)、過日は八木谷涼子著『もっと教会を行きやすくする本 「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社)を読んだ。
 

 僕なりの、ちょっと変わった言い方をすれば、手ではなく、足を使って書かれた本が大好きで、そうした本はいずれも読み応えがある。筆者は100以上の教会へ足を運んだ、と記されていたことから、期待を込めて読んでみたら、それが裏切られることはなかった(ただし、書名が長すぎる)。
 そして、読書中、随所で、僕をくすくすと笑わせてくれた。なぜなら、僕にも思い当たる節があるから。
 教会について書いた本を読んで笑うのは、はたして不謹慎だろうか。
 本書を読んで、くすくすと笑った理由は、教会へ行った新来者である筆者の体験談が、僕のそれと実によく似ているから。僕の場合、教会ではなく、お寺へいわゆる飛び込み営業みたいに足を運ぶのだ。筆者と同じく100以上のお寺を参拝している(昨今、流行のご朱印集めとは訪問の次元が違う)。『もっとお寺を行きやすくする本』が書けるくらいだ。読後は筆者である「ヤギタニさん」に会って、話をしてみたくなった。
 ちなみに以前の更新(vol.1646)で、同じ筆者による『キリスト教の歳時記』(講談社学術文庫)を紹介済みです。

 以下は余談。
 昨夜がそうだったのですが、遠い空から響いて聞こえてくる雷鳴が好きです。まるで神様からの声(啓示)のようで。自然が作り出す音はどれも素晴らしい。これを書いている今、午前5時半。雨は上がって、雲の間から青空が少しずつ広がってきています。

2018年6月8日金曜日

vol.1657 東郷青児のエレベーターの扉絵

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 上の写真は一昨日(6日)の朝日新聞の朝刊で、紙面に掲載された写真を目にして、どこかで見覚えのある絵だな、と思い、記事を読んだところ、はっと気がついた。
 僕が週に1、2度、目にしていた正体不明の、あの絵だ、と。
 下の写真がそれで、記事にあるように名古屋市中川区にある「おしむら歯科」駐車場内に看板のようにして設置されている。
 

 だが、絵の場所には、横にも奥にも何もないことから(ましてや屋外広告でもない)、ずっと不思議に感じていた。しかし、新聞記事を読んで、その正体がエレベーターの扉だったと分かり、なるほど納得した。
 実を言うと、2年前の秋、同区内にあるイタリア家庭料理の店「カラダにBENE(ベーネ)」にて、押村院長とランチをご一緒させていただいたことがある(vol.1343)。その際は中川区の町おこしについて、お話をしたような記憶が残っている。

 以下は余談。
 昨日は某寺院のご住職様から、「ちょうどポケモンGOの話題が載っているよ」と教えていただき、『月刊住職』2018年6月号を読みました。下の写真が目次で、本誌にざっとではなく、じっくりと目を通したのは、これが初めてで、大変勉強になりました。
 

 連載記事の「仏教ことわざよもやま漫歩」と「色即是空の科学事始め」を興味深く読みました。

2018年6月7日木曜日

vol.1656 続々 ブルトマン著『ヨハネの福音書』を読んで

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 前回の更新(vol.1655)からの続きで、ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んだ感想を記したい。
 

 本書には巻頭(3~39ページ)に解説が置かれている。解説は大貫隆氏による執筆で、少し前の更新(vol.1646)で、氏の著作である『聖書の読み方』(岩波新書)を紹介した。
 解説では、先行する文献批判的研究やブルトマンの「啓示講話資料」などに触れた内容が読者に親切に紹介されている。また、「非神話化」や「グノーシス(認識)」についても触れられている。
 本来ならば、本文ではなく、解説から書くのが正しい順番だったのだろう。

 「その結果、仮に読者が福音書のある特定の箇所について、本書がどのような注解を行っているか知りたいというような場合、該当する注解箇所を見つけるまでが一苦労である(本書9ページより抜粋)」。

 解説では最後に、訳者である杉原助氏についても触れられていた。そして、本書の巻末には、訳者あとがきが記されている。
 

 ブルトマンの『聖書』に対する釈義が既に古典扱いで、現在では批判や再検討の渦中にあったとしても、その素晴らしさは変わることがない、と僕は感じている。なぜなら、古くても、正しくなくても、これほどまでに(夢中になって)「読ませる」のだから。
 引き続き、本書の後半を読み進めたい。しかしながら、前回の更新(vol.1655)でも書いたように「読後は興奮と共に疲労感が尋常じゃない」ことから、少しの間、頭(大脳新皮質)を休ませる必要を感じている。

 以下は余談。
 時計の針は午前5時を回ったばかりだ。「休ませる」と書いておきながら、そうもいかないところが何とも僕らしい。外は昨日から降り続いていた雨が止んでいる。実際問題として、休みたくても休めないのだ。平安はいずこに。

2018年6月6日水曜日

vol.1655 続 ブルトマン著『ヨハネの福音書』を読んで

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 前回の更新(vol.1654)からの続きで、ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んだ感想を記したい。
 未読の方のために以下、本書の内容を少し紹介しておくと、
 

 聖書の該当箇所
 第七章
 三三 イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。
 三四 あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。

 本書の本文
 「従ってこの言葉の聞き手に恐るべき責任を負わせるもの、それは啓示の歴史的な偶然性である。啓示は好き勝手に扱えるものではなくて、啓示自身によって定められた、限られた時にしか存在しないものである(脚注)。それの核心は無時間的にとらえうる一般的な真理や、いつでも利用できる教義にあるのではない。それは時間の中で出会うものであり、人格的な現在なのである。啓示者の呼びかけが発せられた、その機会を逸すれば、手遅れになるのである」(本書248~9ページ「啓示の偶然性」について」抜粋)。

 本書の脚注
 「時間性は、他の点に関しても、啓示の出来事にとっていかに重要であるかを、(まだしばらくは)と(またしばらくすると)は示している」。

 前回の更新(vol.1654)の冒頭にも書いたけれど、昨日の時点(5月31日~6月5日)で、ようやく半分(本書の358ページまで)を読み終えた。読後は興奮と共に疲労感が尋常じゃない。なぜなら、
  1、本書の本文を読む。
  2、聖書の該当箇所を再読して、確認する。
  3、本書の本文を再読して、理解を深める。
  4、本書の脚注を確認する。
 上記の1から4までを繰り返しながら、読み進めていくといった作業で、普通の読書と違って、ページがなかなか進まない。ましてや、周囲に雑音があると、集中力が削がれ、理解を深める際の妨げになるから。
 しかしながら、本書を読んで、理解を深めた後は、『聖書(ヨハネの福音書)』に記された奥深い言(ことば)、この場合、ロゴスの正体がまるで解剖でもしたかのように、はっきりと手に取るように分かって、興奮させられる。

 以下は余談。
 今、午前6時だ。外は雨が降っている。6月6日は、こうでなくちゃ、と。絵描き歌の「かわいいコックさん」を口ずさみながら。

2018年6月5日火曜日

vol.1654 ブルトマン著『ヨハネの福音書』を読んで

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 別のところでも書いたのだが、先月末から『箴言』と並行して、ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んでいる。
 まだ読んでいる最中ながら(ようやく半分まで読み終えた)、感想としては、少し可笑しな表現だけれども、背筋がぞくぞくするほどの知的な興奮を覚える。
 学生(大学院)時代、机にかじりついて、ミハイル・バフチンやルネ・ジラールの著作を読んでいた頃を思い出している。恩師であるK先生の研究室で、そうした著作を読んだ感想を話し合ったりした、楽しい時間が懐かしい。
 今となっては、誰かと話したくても、僕の周囲で、そうしたことを話し合うことのできる人がいない。皆無だ。そのことを寂しく、とても残念に思う。
 もっともこれに関しては、僕がそうしたことも勉強していたのを他人に一切話したことがないのだから、仕方のないことなのだけれども。
 僕の孤独な読書はそれでも続く。

 以下は余談。
 話題はまだ続くのですが、長文になることから、今回と次回の更新に分けたいと思います。

2018年6月4日月曜日

vol.1653 『箴言』第三〇章と第三一章(自己解説)

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 少し前の更新(vol.1650 )からの続きで、『箴言』の解釈。補足しておくと、前章までのソロモンの箴言とは別の言葉である。

 第三〇章
 一 マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、
 四 天にのぼったり、下ったりしたのはだれか、風をこぶしの中に集めたのはだれか、水を着物に包んだのはだれか、地のすべての限界を定めた者はだれか、その名は何か、その子の名は何か、あなたは確かにそれを知っている。

 第三〇章には、「三つある、いや、四つあって」という言い回しが何度も出てくる。僕個人として、国語(表現)の勉強になった。
 

 第三一章
 一マッサの王レムエルの言葉、すなわちその母が彼に教えたものである。
 二 わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。
 三 あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。

 なるほどこれが母の言葉か、と。聡明な女性の言葉であって、僕のような男には、口にできないし、書けもしない言葉だ。
 『箴言』について、取り上げるのは今回が最後で、全章を6回に分けて、記述しました。
 ブログを書く際に「しんげん」を漢字に変換すると、従来は候補が「進言」や「震源」、あるいは「信玄」となっていました。しかし、今ではすっかり「箴言」になっています。日頃の言葉遣いで、その人の知識や知性が表れる一例だな、と。

2018年6月3日日曜日

vol.1652 羽島市円空顕彰会の総会

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 前回の更新(vol.1651)からの続きで、昨日の午前中、江南市にある音楽寺で行われたあじさい祭りの開会式典に参列しました。
 続けて、午後からは羽島市へ向かい、下の写真にあるように中観音堂で行われた羽島市円空顕彰会の総会に出席しました。
 

 総会の開始前、中観音堂の円空仏に久しぶりに会いました。少し遅くなりましたが、個人蔵の円空仏にも。
 総会の最後には、「観音信仰について」と題した長谷川公茂先生の講演がありました。
 下の写真は講演の際に使用した長谷川先生が撮影した円空仏のパネルです。
 

 昨日は長谷川公茂先生に随行して、音楽寺と中観音堂の円空仏を目にしたことから、楽しく、充実した時間を過ごしました。

 以下は余談。
 帰途、長谷川公茂先生とF様とご一緒させていただき、F様からお礼にと、大口屋の麩饅頭「あんぷちゃちゃ」を頂戴しました(この場を借りて、お礼申し上げます)。
 

 甘いものに目がない僕は美味しく食べました。大口屋の麩饅頭については、以前の更新(vol.936)でも紹介済みです。

2018年6月2日土曜日

vol.1651 江南市 音楽寺のあじさい祭りと円空仏

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 今日の午前中は一昨年(vol.1284)、昨年(vol.1472)と同様、江南市へ行き、音楽寺のあじさい祭りに参列して、円空仏に会ってきました。
 下の写真はあじさい祭りの開会式典でスピーチをする長谷川公茂先生です。
 

 開会式典の後、音楽寺に隣接する村久野会館で、江南市長を始めとするご来賓の皆様方と会食して、お土産にと「音楽寺せんべい」を頂戴しました。

 音楽寺(村久野区歴史資料館)
 江南市村久野町寺町73
 第20回 あじさい祭り 6月2日~24日
 円空仏拝観 (300円)
 駐車場 (無料)

 文末になってしまいましたが、あじさい祭りの関係者の皆様には、昨年と同様、今年も大変お世話になりました。この場を借りて、深くお礼申し上げます。
 続けて、午後からは羽島市へ向かいましたが、別の話題となることから、次回の更新で。

2018年6月1日金曜日

vol.1650 『箴言』第二五~二九章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1649)からの続きで、『箴言』の解釈。

 第二七章
 一九 水にうつせば顔と顔とが応じるように、人の心はその人をうつす。

 人の心の清らかさが色のように目にはっきりと見えればいいのに、と思う。そしたら、法然上人や円空さんは釈尊と同じように金色に輝いていて、ひょっとしたら眩しくて目には見えなかったかも。
 

 第二八章
 二一 人を片寄り見ることは良くない、人は一切れのパンのために、とがを犯すことがある

 偏見は自分の視野を狭くする。外国にいたとき、文化の違いから、それをつくづくと感じだ。
 「一切れのパン」と記されているのを目にして、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に登場するジャン・ヴァルジャンをすぐに思い出した。続けて、アニメ映画『天空の城ラピュタ』の主題歌である「君をのせて」を思い出した。きっと僕だけじゃないはず。

 以下は余談。
 先月は怒涛の更新ながら、そのほとんどが『聖書』の話題でした。今こうして毎日『聖書』を読んでいると(僕はクリスチャンではありません)、こんなにも知的好奇心を刺激する本なんだと、この歳まで知らなかったことを恥ずかしく思います。ベストセラーに良書なし、と僕は常々感じていましたが、やはり『聖書』は例外(別次元)でした。そして、もう一つ、大事なことは翻訳に関して。文語訳でもなく、新改訳でもなく、新共同訳でもなく、口語訳だったからこそで、それが僕にぴったり合っていたのだ、と。