ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
前回の更新(vol.1619)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一〇~一二章について。いささか駆け足気味ながらも、とりわけ第一二章の話題に触れたい。その理由は後ほど。
第一〇章
一六 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
一七 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
一八 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
第一一章
四一 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
四二 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
四三 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
四四 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
第一二章
三 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
四 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
五 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
六 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
七 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
二七 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
二八 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
三五 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
三六 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。
つい長々と引用したが、そのいずれもが僕の胸に響く言葉である。とりわけ第一二章は僕が『聖書』、この場合は『ヨハネによる福音書』を深く読むきっかけとなったのである。少し前の更新(vol.1606、vol.1608)でも書いたけれど、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に、それが出てくる。
二四 よくよくあなたがたに言っておく、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
『ヨハネによる福音書』の中から、上記はドストエフスキーが選んだイエスの言葉で、下記は(今の)僕が選んだイエスの言葉。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない(第三章八節)。
イエスが語る数ある中から選んだ言葉には、その人の人生観が凝縮されているのだ、と。
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