2018年4月28日土曜日

vol.1620 『ヨハネによる福音書』第一〇~一二章(自己解説)

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 前回の更新(vol.1619)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一〇~一二章について。いささか駆け足気味ながらも、とりわけ第一二章の話題に触れたい。その理由は後ほど。

 第一〇章
 一六 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
 一七 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
 一八 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

 第一一章
 四一 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
 四二 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
 四三 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
 四四 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

 第一二章
 三 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
 四 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
 五 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
 六 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
 七 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。

 二七 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
 二八 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。

 三五 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
 三六 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。

 つい長々と引用したが、そのいずれもが僕の胸に響く言葉である。とりわけ第一二章は僕が『聖書』、この場合は『ヨハネによる福音書』を深く読むきっかけとなったのである。少し前の更新(vol.1606、vol.1608)でも書いたけれど、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に、それが出てくる。

 二四 よくよくあなたがたに言っておく、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

 『ヨハネによる福音書』の中から、上記はドストエフスキーが選んだイエスの言葉で、下記は(今の)僕が選んだイエスの言葉。

 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない(第三章八節)。

 イエスが語る数ある中から選んだ言葉には、その人の人生観が凝縮されているのだ、と。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿