2018年6月8日金曜日

vol.1657 東郷青児のエレベーターの扉絵

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 上の写真は一昨日(6日)の朝日新聞の朝刊で、紙面に掲載された写真を目にして、どこかで見覚えのある絵だな、と思い、記事を読んだところ、はっと気がついた。
 僕が週に1、2度、目にしていた正体不明の、あの絵だ、と。
 下の写真がそれで、記事にあるように名古屋市中川区にある「おしむら歯科」駐車場内に看板のようにして設置されている。
 

 だが、絵の場所には、横にも奥にも何もないことから(ましてや屋外広告でもない)、ずっと不思議に感じていた。しかし、新聞記事を読んで、その正体がエレベーターの扉だったと分かり、なるほど納得した。
 実を言うと、2年前の秋、同区内にあるイタリア家庭料理の店「カラダにBENE(ベーネ)」にて、押村院長とランチをご一緒させていただいたことがある(vol.1343)。その際は中川区の町おこしについて、お話をしたような記憶が残っている。

 以下は余談。
 昨日は某寺院のご住職様から、「ちょうどポケモンGOの話題が載っているよ」と教えていただき、『月刊住職』2018年6月号を読みました。下の写真が目次で、本誌にざっとではなく、じっくりと目を通したのは、これが初めてで、大変勉強になりました。
 

 連載記事の「仏教ことわざよもやま漫歩」と「色即是空の科学事始め」を興味深く読みました。

2018年6月7日木曜日

vol.1656 続々 ブルトマン著『ヨハネの福音書』を読んで

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 前回の更新(vol.1655)からの続きで、ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んだ感想を記したい。
 

 本書には巻頭(3~39ページ)に解説が置かれている。解説は大貫隆氏による執筆で、少し前の更新(vol.1646)で、氏の著作である『聖書の読み方』(岩波新書)を紹介した。
 解説では、先行する文献批判的研究やブルトマンの「啓示講話資料」などに触れた内容が読者に親切に紹介されている。また、「非神話化」や「グノーシス(認識)」についても触れられている。
 本来ならば、本文ではなく、解説から書くのが正しい順番だったのだろう。

 「その結果、仮に読者が福音書のある特定の箇所について、本書がどのような注解を行っているか知りたいというような場合、該当する注解箇所を見つけるまでが一苦労である(本書9ページより抜粋)」。

 解説では最後に、訳者である杉原助氏についても触れられていた。そして、本書の巻末には、訳者あとがきが記されている。
 

 ブルトマンの『聖書』に対する釈義が既に古典扱いで、現在では批判や再検討の渦中にあったとしても、その素晴らしさは変わることがない、と僕は感じている。なぜなら、古くても、正しくなくても、これほどまでに(夢中になって)「読ませる」のだから。
 引き続き、本書の後半を読み進めたい。しかしながら、前回の更新(vol.1655)でも書いたように「読後は興奮と共に疲労感が尋常じゃない」ことから、少しの間、頭(大脳新皮質)を休ませる必要を感じている。

 以下は余談。
 時計の針は午前5時を回ったばかりだ。「休ませる」と書いておきながら、そうもいかないところが何とも僕らしい。外は昨日から降り続いていた雨が止んでいる。実際問題として、休みたくても休めないのだ。平安はいずこに。

2018年6月6日水曜日

vol.1655 続 ブルトマン著『ヨハネの福音書』を読んで

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 前回の更新(vol.1654)からの続きで、ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んだ感想を記したい。
 未読の方のために以下、本書の内容を少し紹介しておくと、
 

 聖書の該当箇所
 第七章
 三三 イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。
 三四 あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。

 本書の本文
 「従ってこの言葉の聞き手に恐るべき責任を負わせるもの、それは啓示の歴史的な偶然性である。啓示は好き勝手に扱えるものではなくて、啓示自身によって定められた、限られた時にしか存在しないものである(脚注)。それの核心は無時間的にとらえうる一般的な真理や、いつでも利用できる教義にあるのではない。それは時間の中で出会うものであり、人格的な現在なのである。啓示者の呼びかけが発せられた、その機会を逸すれば、手遅れになるのである」(本書248~9ページ「啓示の偶然性」について」抜粋)。

 本書の脚注
 「時間性は、他の点に関しても、啓示の出来事にとっていかに重要であるかを、(まだしばらくは)と(またしばらくすると)は示している」。

 前回の更新(vol.1654)の冒頭にも書いたけれど、昨日の時点(5月31日~6月5日)で、ようやく半分(本書の358ページまで)を読み終えた。読後は興奮と共に疲労感が尋常じゃない。なぜなら、
  1、本書の本文を読む。
  2、聖書の該当箇所を再読して、確認する。
  3、本書の本文を再読して、理解を深める。
  4、本書の脚注を確認する。
 上記の1から4までを繰り返しながら、読み進めていくといった作業で、普通の読書と違って、ページがなかなか進まない。ましてや、周囲に雑音があると、集中力が削がれ、理解を深める際の妨げになるから。
 しかしながら、本書を読んで、理解を深めた後は、『聖書(ヨハネの福音書)』に記された奥深い言(ことば)、この場合、ロゴスの正体がまるで解剖でもしたかのように、はっきりと手に取るように分かって、興奮させられる。

 以下は余談。
 今、午前6時だ。外は雨が降っている。6月6日は、こうでなくちゃ、と。絵描き歌の「かわいいコックさん」を口ずさみながら。

2018年6月5日火曜日

vol.1654 ブルトマン著『ヨハネの福音書』を読んで

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 別のところでも書いたのだが、先月末から『箴言』と並行して、ブルトマン著・杉原助訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)を読んでいる。
 まだ読んでいる最中ながら(ようやく半分まで読み終えた)、感想としては、少し可笑しな表現だけれども、背筋がぞくぞくするほどの知的な興奮を覚える。
 学生(大学院)時代、机にかじりついて、ミハイル・バフチンやルネ・ジラールの著作を読んでいた頃を思い出している。恩師であるK先生の研究室で、そうした著作を読んだ感想を話し合ったりした、楽しい時間が懐かしい。
 今となっては、誰かと話したくても、僕の周囲で、そうしたことを話し合うことのできる人がいない。皆無だ。そのことを寂しく、とても残念に思う。
 もっともこれに関しては、僕がそうしたことも勉強していたのを他人に一切話したことがないのだから、仕方のないことなのだけれども。
 僕の孤独な読書はそれでも続く。

 以下は余談。
 話題はまだ続くのですが、長文になることから、今回と次回の更新に分けたいと思います。

2018年6月4日月曜日

vol.1653 『箴言』第三〇章と第三一章(自己解説)

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 少し前の更新(vol.1650 )からの続きで、『箴言』の解釈。補足しておくと、前章までのソロモンの箴言とは別の言葉である。

 第三〇章
 一 マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、
 四 天にのぼったり、下ったりしたのはだれか、風をこぶしの中に集めたのはだれか、水を着物に包んだのはだれか、地のすべての限界を定めた者はだれか、その名は何か、その子の名は何か、あなたは確かにそれを知っている。

 第三〇章には、「三つある、いや、四つあって」という言い回しが何度も出てくる。僕個人として、国語(表現)の勉強になった。
 

 第三一章
 一マッサの王レムエルの言葉、すなわちその母が彼に教えたものである。
 二 わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。
 三 あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。

 なるほどこれが母の言葉か、と。聡明な女性の言葉であって、僕のような男には、口にできないし、書けもしない言葉だ。
 『箴言』について、取り上げるのは今回が最後で、全章を6回に分けて、記述しました。
 ブログを書く際に「しんげん」を漢字に変換すると、従来は候補が「進言」や「震源」、あるいは「信玄」となっていました。しかし、今ではすっかり「箴言」になっています。日頃の言葉遣いで、その人の知識や知性が表れる一例だな、と。

2018年6月3日日曜日

vol.1652 羽島市円空顕彰会の総会

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 前回の更新(vol.1651)からの続きで、昨日の午前中、江南市にある音楽寺で行われたあじさい祭りの開会式典に参列しました。
 続けて、午後からは羽島市へ向かい、下の写真にあるように中観音堂で行われた羽島市円空顕彰会の総会に出席しました。
 

 総会の開始前、中観音堂の円空仏に久しぶりに会いました。少し遅くなりましたが、個人蔵の円空仏にも。
 総会の最後には、「観音信仰について」と題した長谷川公茂先生の講演がありました。
 下の写真は講演の際に使用した長谷川先生が撮影した円空仏のパネルです。
 

 昨日は長谷川公茂先生に随行して、音楽寺と中観音堂の円空仏を目にしたことから、楽しく、充実した時間を過ごしました。

 以下は余談。
 帰途、長谷川公茂先生とF様とご一緒させていただき、F様からお礼にと、大口屋の麩饅頭「あんぷちゃちゃ」を頂戴しました(この場を借りて、お礼申し上げます)。
 

 甘いものに目がない僕は美味しく食べました。大口屋の麩饅頭については、以前の更新(vol.936)でも紹介済みです。

2018年6月2日土曜日

vol.1651 江南市 音楽寺のあじさい祭りと円空仏

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 今日の午前中は一昨年(vol.1284)、昨年(vol.1472)と同様、江南市へ行き、音楽寺のあじさい祭りに参列して、円空仏に会ってきました。
 下の写真はあじさい祭りの開会式典でスピーチをする長谷川公茂先生です。
 

 開会式典の後、音楽寺に隣接する村久野会館で、江南市長を始めとするご来賓の皆様方と会食して、お土産にと「音楽寺せんべい」を頂戴しました。

 音楽寺(村久野区歴史資料館)
 江南市村久野町寺町73
 第20回 あじさい祭り 6月2日~24日
 円空仏拝観 (300円)
 駐車場 (無料)

 文末になってしまいましたが、あじさい祭りの関係者の皆様には、昨年と同様、今年も大変お世話になりました。この場を借りて、深くお礼申し上げます。
 続けて、午後からは羽島市へ向かいましたが、別の話題となることから、次回の更新で。

2018年6月1日金曜日

vol.1650 『箴言』第二五~二九章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1649)からの続きで、『箴言』の解釈。

 第二七章
 一九 水にうつせば顔と顔とが応じるように、人の心はその人をうつす。

 人の心の清らかさが色のように目にはっきりと見えればいいのに、と思う。そしたら、法然上人や円空さんは釈尊と同じように金色に輝いていて、ひょっとしたら眩しくて目には見えなかったかも。
 

 第二八章
 二一 人を片寄り見ることは良くない、人は一切れのパンのために、とがを犯すことがある

 偏見は自分の視野を狭くする。外国にいたとき、文化の違いから、それをつくづくと感じだ。
 「一切れのパン」と記されているのを目にして、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に登場するジャン・ヴァルジャンをすぐに思い出した。続けて、アニメ映画『天空の城ラピュタ』の主題歌である「君をのせて」を思い出した。きっと僕だけじゃないはず。

 以下は余談。
 先月は怒涛の更新ながら、そのほとんどが『聖書』の話題でした。今こうして毎日『聖書』を読んでいると(僕はクリスチャンではありません)、こんなにも知的好奇心を刺激する本なんだと、この歳まで知らなかったことを恥ずかしく思います。ベストセラーに良書なし、と僕は常々感じていましたが、やはり『聖書』は例外(別次元)でした。そして、もう一つ、大事なことは翻訳に関して。文語訳でもなく、新改訳でもなく、新共同訳でもなく、口語訳だったからこそで、それが僕にぴったり合っていたのだ、と。