ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
一 長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。
五 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。
九 すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。
一二 あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。
一三 選ばれたあなたの姉妹の子供たちが、あなたによろしく。
前回の更新(vol.1635)で取り上げた『ヨハネの第三の手紙』と同様に、手紙の差出人は長老である。受取人は婦人とその子たちとあるけれど、手紙の体裁としても、内容が「互に愛し合おう」と呼びかけたりして、何だか漠然としている。
長老からのお願いとして、具体的な「教(おしえ)」が記されてはいるが、全体として、まるで念を押すかのようだ。
「キリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者」とは、いったい誰を指すのだろうか。現代で言えば、街角に立っている2人組や休日の朝に訪問してくる人たちのことを指しているのだろうか。
そうした人たちに限らず、新興宗教の信者たちは皆、奉仕活動やお布施(献金)などが大変だろう、と勝手な想像をしつつ、どうやって生計を立てて暮らしているのかと、僕はいつも不思議に思っている。
信じることと、自己犠牲は違うはずなのに。僕の人生経験では、宗教(信仰)に限らず、恋愛だって、師弟関係でも、同じことが言えると思うのだけれども。
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