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昨日の朝はブルトマンが1923年に書いた論文「ヨハネ福音書の序文の宗教史的背景」を読みました。論文は杉原助訳『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されています。
以前の更新(vol.1610)にも書きましたが、僕が初めて『ヨハネによる福音書』を読んだのは高校生の頃で、今から約30年前のこと。その序文「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」は僕が『聖書』の中で、最も親しんだ箇所であり、ブルトマンがそれについて書いているとあっては、どうしても読まずにいられません。
さて、論文に関しては、細部(序文)を取り上げていることから、同じ作者の『ヨハネによる福音書』全般を論じた著作『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)よりも、さらに細かな分析になっており、微に入り細を穿つようで、読んでいて、難しかったというのが、正直な感想です。
以下は僕がいつも読んでいる『ヨハネによる福音書』口語訳の「言(ことば)」と訳されているロゴスについての話題で、興味のない人は読び飛ばしてもらっても構いません。
ブルトマンは論文の冒頭で、以下のように提議している。「どこまでが先住のロゴスについて語っていて、どこからが歴史に登場したロゴス、すなわちイエスについて語っているのか(本書41ページ引用)」と。
また、ロゴスはそれ以前、ソフィア(知恵)であって、知恵は預言者に霊感を与える、と述べている(本書56ページ)。
「知恵が語ることをそれから遣わされた者が語るのであり、また逆に遣わされた者の言葉は智恵そのものの言葉なのである。遣わされた者において、知恵そのものが現われ、自己を啓示するのである。だから説教するのは知恵自らなのである(本書57ページ引用)」。
「隠れていながらそこから繰返し地上に降りてきて、その遣わされた者、すなわち預言者の姿に化身するのは、根本的には知恵そのものなのである(本書59ページ引用)」。
「まず最初にアダムにおいて歴史的に現われ、次いでエノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、という一連の預言者たちにおいて自己を啓示し、最後にキリストにおいて現われるのである」(本書60ページ引用)。
「ヨハネ福音書においては、創造の神性者と啓示の神性者とが組み合わされた存在がロゴスとして登場している(本書68ページ引用)」。
以上は僕自身が後々、内容を確かめるために簡潔にまとめた要点です。
以下の2つは『ヨハネによる福音書』の書き手についてで、これも僕自身が後々、内容を確かめるための備忘録です。
「キリスト者である読者は一〇~一一節からイエスの生涯の悲劇を想起させられたに違いないことは明らかであるから、著者がそれを考えなかったとは想像しにくい(本書42ページ引用)」。
「福音書記者自身の手になる言葉は一四節から始まっているのだ、と考える、他の可能性も存在している(本書66ページ引用)」。
また、序文とは直接関係ありませんが、文末に記されていた事柄を、これもまた僕自身が後々、内容を確かめるために。
「だが私(筆者であるブルトマンを指す)はここでは、この福音書では第三章と第五章とにおいてこの思想圏に由来する重要な諸命題が述べられた直後に、第一章におけると同様、証しのテーマが再び現われ、洗礼者がイエスの証人としての役割を演じぬくという事実に注意を喚起するにとどめたい(本書68ページ引用)」。
最後に、僕から付け加えておくことがあるとしたら、ブルトマンは1884年生まれだから、39歳の時に発表した論文であり、以前の更新(vol.1654、vol.1655、vol.1656)で取り上げた『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)の予備研究であることは言うまでもない。
以下は余談。
早起きをして(今朝は午前4時前)、近頃は少し前の更新(vol.1661)でも書いたように、こうして一銭にもならないことをしている自分を客観視したら、太るはずもないし、道理で嫁さんも貰えんはずだと、思わず苦笑しました。
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