ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
『ヨハネの第二の手紙』(vol.1636)と『ヨハネの第三の手紙』(vol.1635)と併せて、既に先月、読んではいたけれど、理由あって、取り上げるのが遅くなってしまった。何事も順番通りに行かないのが世の常だと。
第一章
一 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について
二 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである
三 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
五 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
第二章
二 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
六 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
一一 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。
一六 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
一八 子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。
二四 初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。
『ヨハネの第一の手紙』の書き出しを読んだら、『ヨハネによる福音書』の冒頭を彷彿とさせた。「言(ことば)」「命(いのち)」「光」「やみ(闇)」とあり、書いてある内容は、ほぼ同じではないか、と。
だから、僕は嬉しくなった。なぜなら、そのどちらも暗唱したいと思うような内容が綴られていたからだ。実際に『ヨハネによる福音書』の冒頭、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」を僕は暗唱できる。
そして、序文というものは、こういうふうに書くのだ、と教えられた気がする。言わずもがな、『聖書』は(「永遠の命」が記されている)ベストセラーだから。
第三章以降は長文になることから、次回の更新に譲りたい。
『聖書』の該当ページに関して、いつもは読み始める前に写真を撮っているのだが、今回だけは(理由あって)読み終わってから写真を撮ったことから、余白に書き込みがあって、いささか見苦しいことをお許しください。
以下は余談。
ほとんど毎日、こうして午前4時に起床していても、日中、眠くはならないけれど、目が疲れるのか、目の下のクマがいささか目立ってしまい、(疲れているように見えるらしく)困っている。
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