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前回の更新(vol.1667)と関連して、『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されている「最近解明されたマンダ教・マニ教資料とヨハネ福音書」を読みました。
本論文の意図するところは、ブルトマンの言葉を借りれば、「ヨハネ福音書の底にあの神話があることを、福音書の個々の文章に上述の諸テクストから引用された平行例を並べるという仕方で、証明してみよう(本書104ページ抜粋)」にある。そして、具体例が提示され、それぞれが比較されて、それに対してのブルトマンの釈義が述べられている。
上記の抜粋にある「あの神話」について、話を戻し、ブルトマンの言葉を引用しておくと、
「つまりそれ(イエスの啓示)の背後には、事実強力な神話が潜んでいるのであって、それを認識することこそヨハネ福音書の正しい理解のための第一歩なのである。それを認識する上で助けになるのは、リツバルスキーの版によって初めて実際に学問的に用いるようになったマンダ教のテクスト、ならびに新しく発見されたマニ教の資料である(本書103ページ引用)」。
「(中略)救済神話は、簡潔に描写すれば次の通りである。すなわち、天から下った遣わされた者は、地上で捕らわれていた霊魂に、それの起源、故里及びそこへの帰還についての啓示をもたらす。遣わされた者は、地的・人間的な衣をまとって現われ、栄光の中に(天へ)上る(本書103ページ引用)」。
であって、さらに付言すると、
「ヨハネ福音書のイエスの姿を理解するためには、この遣わされた者の像こそが何よりも重要なのである(本書104ページ引用)」。
となっている。
かくして、平行例を示して、「詳論の主要な意図は達せられた(本書176ページ抜粋)」と記した後には、次のように述べられていた。
「ヨハネ福音書は特定の文献に依存しているのかどうか、また、ヨハネ的キリスト教に影響を与えた特定の宗教共同体が検出できるかどうか、という問題である(本書178ページ抜粋)」。
「マンダ教のテクストを読む人は、ヨハネの用語との強い文体上の親近性に気付くはずである(本書178ページ抜粋)」。
ただし、本書の巻頭に付された解題によれば、この場合のブルトマンの釈義は、最近の研究にて否定されているらしい(事実がどうあれ、僕個人はブルトマンの釈義を善しとしている)。
そして、本稿の結論へと続くのだが、それは書かない。その代わりに『ヨハネによる福音書』を読むにあたって、大変参考になるであろう、巻末に記された言葉を以下に引用しておきたい。
「啓示はすべての人間的なものの否定、すべての人間的な問の拒否、すべての人間的な答の拒絶、人間自身の疑問視としてだけ示されているのである(本書183ページ引用)」。
併せて、僕自身が本論を読んで、知りたかった答えが記されていた箇所を以下に引用して、今回のまとめとしたい。
「彼の運命は彼らの運命であり、彼の救済は彼らの救済なのである。彼らが、忘れていた自分の故里を再び認識するならば、つまり彼らが自分の起源と自分の霊魂の運命の目標とを知るならば、彼らはすべての『知識』を所有しているわけだし、その知識がすなわち彼らの『救い』なのである(本書182ページ引用)」。
最後に、例によって、ブルトマンは1884年生まれだから、41歳の時に発表した論文である。
以下は余談。
今日は夏至。いつもの時間に起床しても、外が明るいから、寂しくなくていい。
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