2018年6月19日火曜日

vol.1666 ブルトマン著「ヨハネ福音書の考察若干」(1928/30年)を読んで

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 前回の更新(vol.1665)と関連して、『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されている「ヨハネ福音書の考察若干」を読みました。
 「ヨハネ福音書の考察若干」はその内容が大きく2つに分けられて、A、「真理」。B、「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」となっていた。
 今回の更新では、Aの「真理」について述べてみたい。
 

 Aの真理についても、その内容が2つに分けられて、1、旧約聖書およびその影響下における真理概念。2、ギリシア文献とヘレニズム文献における真理となっていた。

 旧約の「真理」の概念の問題性はXXL(七十人訳ギリシア語旧約聖書)がヘブル語の「エメト」を、「真理、真実」とも、「真実、信仰」とも訳すことができる、という点に示されている。したがって「エメト」の基本的な意味は「真理」のそれとは違ったものであるはずである。というのは、「真理」というギリシア語からは上記の多様な訳し方は理解しえないからである。したがって「エメト」の基本的意味を捉え、それをもとにして、そこから生じうる多様な訳し方を把握することが大切になる(本書225ページ引用)。

 本論では「エメト」の語源、意味、用法等について、丹念に記されていた。それがいかようにして「真理」と訳されているのか。ギリシア文献とヘレニズム文献において、「真理」の意味するところが(ブルトマンらしい釈義で)示されている。
 僕はブルトマンの釈義が大好きだと改めて感じた。『聖書(「ヨハネによる福音書」)』の内容はクリスチャンでない素人の僕には分からないこと(謎)だらけ。しかしながら、ブルトマンの著作を読むと、すっきりとした気分になる。いつぞやも書いたけれど、それが古かろうが、間違っていようが、自分が納得できれば、それこそが最善(真実)である。こと宗教に限っては。親鸞聖人が法然上人を信じたように。
 最後に、Bの「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」については、次回の更新で。

 以下は余談。
 今朝は目覚ましがなくても、午前4時ちょうどに目が覚めた。習慣というものは恐ろしいものだ。恐ろしいと言えば、昨日の朝、発生した大阪北部を震源とする地震は長い間、揺れを感じた。午後になって、テレビのニュース映像を見ていたら、国立循環器病センターなど、僕にとっては懐かしい景色が映し出されていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿