ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
前々回の更新(vol.1669)からの続きで、『ヨハネの第一の手紙』の解釈。
第三章
二一 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。
第四章
一〇 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
一二 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
一五 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
第五章
七 あかしをするものが、三つある。
一四 わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
一五 そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。
第四章第一五節の「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである」は、一見すると、何でもないような言葉が、さらりと記されている。
また、「確信」という言葉が出てくる。それも2度。まるでキーワードのようで、この言葉に特別な強さ(『ヨハネの第一の手紙』の著者の思い入れ)を感じた。
以下は余談。
日曜日の朝だというのに、いつものように午前4時に起きている。鳥たちのさえずりを耳にしながら。何とか暇無しとは、よく言ったものだと。
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