2018年1月17日水曜日

vol.1568 安藤芳彦さんの素敵な作詞

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 前々回の更新(vol.1566)の続きで、僕が大好きなミュージシャンの故村田和人さんの話題を取り上げて、作詞に関して触れました。
 村田和人さんの楽曲の作詞は田口俊さんと安藤芳彦さんのお二人。前回は田口俊さんを取り上げたことから、今度は安藤芳彦さんを。
 ちなみに田口俊さんの作詞では、飾り気のないストレートな思いが伝わって来る「少年サイダー」が一番好きです。
 安藤芳彦さんの作詞は何と言っても、書き出しが巧み。いずれの作詞も素敵だから、とっさにどれを引用すべきか迷うけれど、いくつかをここに。

 「僕が髪を切って だいぶ変わったと 君は言うけれど 違う」(Stay The Young)
 「いつもの街角で 約束してる 土曜の午後だから 恋が気分さ」(Weekend Love)
 「少し意地悪な その話し方 何も変わらない その笑い方」(Mc’sRoadで逢いましょう)
 「幸せな夏は いつの日も 駆け足で 通り過ぎる」(Glay Sky Blue)

 僕もこうして文章を書くけれど、安藤芳彦さんのような素敵な言葉は逆立ちしても書けそうにないことから、羨ましくて、憧れてしまう。それはきっと安藤芳彦さんが素敵な生き方をされているからでしょうね。
 僕が初めて村田和人さんの歌を聴くきっかけになったのも、安藤芳彦さんの作詞した「一本の音楽」でした。
 と、ここまで書いてきて、村田和人さんの笑顔が頭に浮かんできて、僕は不覚にも涙ぐんでしまい、話の続きを書けそうもありません。
 

 以下は余談。
 今朝は西の方角(神戸)へ向かって、黙とう。

2018年1月16日火曜日

vol.1567 一宮円空会と円空大賞展

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 今日の午後は一宮市へ行き、一宮市のマンホールカードをゲット。続けて、長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。
 

 下の写真は岐阜県美術館で来月から行われる第9回円空大賞展の案内です。
 

 会期中の来月25日には長谷川公茂先生が出演されるトークイベントがあり、足を運ぶ予定です(初日に行われる授賞式・開場式に誘われたのですが、都合により、足を運べません)。
 

2018年1月14日日曜日

vol.1566 今日の記憶

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 僕が大好きなミュージシャンの故村田和人さんの一曲に「Slide On Your Season」があり、その中に「一年ごとに 時は早く過ぎてく」という歌詞がある(作詞は田口俊さん)。僕は今、それをひしひしと肌で感じていて、今年も半月が過ぎようとしているのかと思ったら、慄然とさせられた。
 下の写真は今日の記憶で、画面を拡大すると分かりますが、文字は紙の両面、つまり裏側にも書いてあります。
 

 タイトルについて、今日の「記憶」ではなくて、正しくは今日の「記録」ではないのか、というツッコミを入れられるかもしれない。こうしてブログに書き残したとしても、僕自身、今日一日は何をしていたのかを、きっと忘れてしまうだろう。だから、記憶で正しいのだ。

 以下は余談。
 大好きな村田和人さんについて、書きたいことが山のようにある(例えば、村田さんがライブで、「愛しているよー、みんな」と叫んだ声が今も僕の耳に残っている)のだけれど、客観視できない自分がいて、まだ当分の間は無理だな、と。今日もカーステレオ(カーオーディオ)で、村田さんのCDを聴いて、元気をもらいました。

2018年1月13日土曜日

vol.1565 この世界の中の卑小な存在

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 過日の更新(vol.1553)にある余談の続きで、僕が都会を好きなのは、そうした場所で自分が育ったからだと思っていたけれど、実際はそれだけじゃなかった。
 大都会には数多の他人がいて、高層ビルの谷間や地下鉄の階段などで、そうした見ず知らず人たちとすれ違うたびに、この世界はとても広くて、その中に僕がいるんだ、ということを気付かせてくれる。
 昨年末、久しぶりに東京で丸一日を過ごしたことをきっかけに、僕は本当にちっぽけな存在で、だからこそ、自分を大切にしなければならないと再認識した。

 以下は余談。
 最初に書いたときは、上記の倍の長さの文章だったけれど、貴重なアドバイスをいただいたことから、推敲して、切り捨てた。今朝は午前3時起床で、窓の外を見たら、雪は止んでいるが、家々の屋根などにうっすらと白く積もっていた。

2018年1月12日金曜日

vol.1564 見える景色、見えない景色

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 バイクで走っているのと車で走っているのとでは、見える景色が違うと言ったら、簡単には信じてもらえないかもしれない。少し補足すると、いろんな次元で、見える景色が違う。単に目の前に映る景色から、どこまで景色が見えるかという高い次元まで、同じ道を走っていても、車の運転とバイクの運転では、まったく違っている。
 具体的なことを書いて、説明するのが最も分かりやすいから、ライダーとドライバーの両方の視点で、以下に。
 ライダーはヘルメットを被っているから視野が狭いというのは作り話だ。むしろ、ドライバーよりも、ずっと景色が見えている。カーブの先の見えない景色まで見て(想像して)走っている。もっと正確に表現すれば、何もかも見えているのだ。でなれけば、事故にあって、下手をすれば、命を失ってしまうから。
 道路を走っているのは、車やバイクだけでなく、バスやトラックと、いろいろあるけれど、どれも運転しているのは人間だ。「当たり前だろ、そんなことは」と思われるかもしれない。が、バイクで道路を走っている際に、僕が相手にしているのは、車やバス、トラックという乗り物ではなく、それを運転している人間だ(ということを常に意識せざるを得ない)。ドライバーに注意して走れば、アクシデントの大抵は防げる。仮に事故で、ぶつかって来る物体は乗り物だが、ぶつけて来る実体は人間だ。だから、僕はいつもバイクで走っている際に、車だけでなく、ドライバーまで注視している。
 ここで、ひとつ面白いことが起こる。車のドライバーには見えていないけれど、ライダーからはドライバーが丸見えだということ。もちろん、ドライバーからだって、バイクにまたがっているライダーの全身が見える。ただし、その瞬間、それと正反対のことが起こっているとは知らずに。
 こちら(ライダー)からは、ドライバーが運転中に化粧をしたり、口を開けて、会話や歌らしきものを歌っていたりと、そうしたことは、しっかり目に見えている。それ以上にドライバーの表情や視線まで見えているのだ。少し大げさに書けば、何を考えているのかも。顔を曇らせていたり、視線の先が別の方向を向いて、気を取られていたりと、見られていないと思っている(油断している)人間の表情や仕種を否応なく観察させられて、それはそれで愉快な気分になったりする。これも僕にとっては、バイクで走る楽しみの一つだ。
 今こうして書いたことが信じられない、嘘だと疑うドライバーがいるならば、ヘルメットを被っているライダーをじっと見つめたらいい。きっと視線が合うはずだから。

 以下は余談。
 連日、午前4時起床の、仮眠続きで、眠くはならないけれど、睡眠不足により、上記の文章内の「てにをは」や言葉選びが間違っていないかと、推敲するために再読してみた。が、話の出だしからして、拙い文章だと気付いて、もう書き直す気力も湧かず、そのままにした。僕の言いたかったことは、いつもブログに目を通してくださっている賢明な読者には、きっと伝わっただろうから。

2018年1月10日水曜日

vol.1563 人の表と裏には

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 どんな人にも表と裏があるのだ、と当たり前のことをここに書いても仕方ない。僕にもあるのだから。
 親しい人や有名人の顔を思い浮かべてみる。あるんだろう、人には決して見せない裏側が。
 そんなふうに考えると、少し寂しい気持ちになる。けれど、僕は寂しいと感じることができるからこそ、そこが他の生き物とは違い、人間なんだと思ってみたりする。
 前夜に悪魔と対決する夢を見て(vol.1562)、今日の午後は空き時間に仏さまを彫った。どちらが表で、どちらが裏なのかは、簡単には決めつけられない。なぜなら、その瞬間に感じたことが表だから。と、次の瞬間には裏になっている。人間の本心とはそういうものだろう。なるほど女心と秋の空と書いたら、怒られるかもしれない。
 話を戻して、下の写真は依頼があり、今日の夕方に彫った木端仏です。
 

 久しぶりに彫ったから、出来に納得せず、数も足りないので、明日また彫らなければなりません。

 以下は余談。
 このところヘビーな更新内容が続いたことから、そろそろ薄味に戻さないと。何だか怖いとか、気持ち悪いとか、そんなふうに思われて、読者に変に誤解されないように。

2018年1月9日火曜日

vol.1562 悪魔と対決する夢を見た

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 僕は何も持っていない。夢や希望さえも。だから、もしも悪魔が現れたとしても、何も持っていない僕から、何を奪うことができるのか。この地上に住んでいる大勢の人間の中で、何も持っていない僕のような人間に用は無いはずだ。
 なるほど、僕が持っているのは肉体だけだ。悪魔が奪おうとしているのは僕の声か、言葉か。それなら奪えるかもしれない。だが、僕は声を、言葉を奪われても、叫び続けるだろう、心の中で。心の声は、言葉は決して枯れたりはしない。
 悪魔よ、お前は心の奥底から出る声を、言葉を聞いたことがあるか。僕は聞いたことがあるぞ。今の僕の声が、言葉がそれだ。 

 以下は余談。
 たとえ夢の中の話であっても、僕と悪魔の戦いはどちらが勝つのか、負けるのか。分からないまま、目が覚めてしまったが、決して引き分けはあり得ないだろう。
 言うまでもなく、僕が見た夢の内容と、実在する僕自身(不器用で、バイクで走るのが大好きな男です)は別人格ですから、ご安心ください。