2018年5月24日木曜日

vol.1642 『伝道の書』第一~六章(自己解説)

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 第一章
 二 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
 九 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

 冒頭に「空」という難解な題目が出てきて、僕としては、大いに心を掴まれた。しかし、読み進めるうちに、説教臭いというか、厭世的というか、読んでいて、(信仰に)励まされるけれど、心弾むところが感じられない。と、同時に『伝道の書』は格言がちりばめられていて、どこを選ぶかが難しい。これほど語りにくいのは初めてだ。語りたくても語れないのはなぜか。僕の人生経験が足りないのかもしれないと考えると、その輪の中に入れなくて、寂しい。

 第三章
 一 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
 二 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
 三 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
 四 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
 五 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
 六 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
 七 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり
 八 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

 対の関係にあって、とりわけ「悲しむ」が「踊る」となっていたのには、なるほどと感心させられた。

 第五章
 四 あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。
 五 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。

 逆説的というか、だからこそ、誓いを果たさなければならない。そう思えるし、僕はそのようにして、今、生きている(「Stay The Young」)。五を前提として、四を結論とする逆の順序で読めば、言葉の凄みがよく分かる。僕は自分の生き方に対して、背中を叩かれ、力強く励まされた。
 『伝道の書』は全部で十二章あることから、半分に分けて、第七章以降は次回の更新で。

 以下は余談。
 今、午前5時だ。雨上がりの空にいろんな鳥たちのさえずりが響いている。
 昨夜の就寝時間は午後11時半で、今朝は午前4時起床。朝食を済ませて、朝刊にざっと目を通した後、これを書いている。

2018年5月23日水曜日

vol.1641 磐田市のマンホールカードとららぽーと磐田

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 毎年、この時期の恒例である楽しい静岡周遊ですが、今年は昨日、O君の道案内で、磐田市へ行きました。
 JR磐田駅前にある観光案内所にて、磐田市のマンホールカードをゲット。
 


 続けて、ららぽーと磐田へ立ち寄り、お買い物の後、休憩タイム。
 


 浜松市へ戻り、僕のリクエストで、例によって、福みつの餃子を食べました。
 

 餃子の皮がカリッとサクサクなのは僕の好みで、漬物が少し苦手な僕でも美味しく食べられます。
 

 最後は久しぶりに太平洋を目にしました。
 

 文末になってしまいましたが、いつも気を遣ってくれるO君へ感謝の言葉を。楽しい時間をありがとう。

2018年5月21日月曜日

vol.1640 『ヤコブの手紙』(自己解説)

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 第一章
 三 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
 一四 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
 一五 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
 一九 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

 上を読んだとき、「口はひとつ、耳はふたつ」とのことわざを思い浮かべた。語るよりも聞くことがコミュニケーションの基本だと、僕に教えてくれたのは、いつも年上の女性だった。

 第三章
 一 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
 二 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
 三 馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。
 四 また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
 五 それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
 六 舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
 七 あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。
 八 ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。
 九 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
 一〇 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。

 僕は教師という職業を微塵も尊敬しない。僕がこの世で初めて出会った悪い大人(不正な他人)は小学校の担任教師であった。僕が何事に対しても、これだけは譲れない条件の一つとして、師匠(上司や先輩も)を選ぶのは、そうした理由からだ。
 これをひっくり返して言えば、素晴らしい先生を見つけることが、学ぶこと(上達)の秘訣で、他には何もいらない。さらに言えば、「学ぶこと」を「生きること」に置き換えても、同じ意味になる。
 たとえば、円空さんを知りたいならば、長谷川公茂先生の教えがすべてで、「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候(『歎異抄』)」と記されている法然上人と親鸞聖人のように。
 このところ、『聖書』に関する更新が続いているけれど、『歎異抄』の素晴らしさについては、いつか機会があれば、書いておきたいと、常々思っている。
 話題を戻して、率直に書くと、僕にとって、『ヤコブの手紙』は第三章に収斂される。幾度も読み返しては、自戒とする箇所が第三章だから。
 「舌は火である。不義の世界である」ということは、自分自身が発する言葉は慎重に選んで、大事に使いたい。
 

 第五章
 一五 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。

 以下は余談。
 少し前の更新(vol.1632)でも書きましたが、『聖書』に目を通すだけで、実に日本語の勉強になります。学が無い僕は『聖書』に書かれていた「煩勞(いたづき)」という言葉を初めて知りました。

2018年5月20日日曜日

vol.1639 『ピリピ人への手紙』(自己解説)

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 第一章
 一 キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
 第二章
 二七 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。
 第四章
 六 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
 七 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
 一〇 さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
 一一 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
 

 『ピリピ人への手紙』の全章を通読して、差出人による、ただならぬほどの固い決意のようなものを感じた。
 とりわけ第四章には、僕のようなネガティブ思考の人間が心に留めておかなければならない言葉がちりばめられていた。「何事も思い煩ってはならない」「事ごとに、感謝をもって」「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」「足ることを学んだ」と。
 『聖書』の言葉はいつも、いつでも力強くて、優しい。迷ったときには、力を抜いたり、背中を押したりしてくれるのだ。

2018年5月19日土曜日

vol.1638 金シャチ横丁 えびせんべいの里

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 今日の午前中は名古屋城の近くにある金シャチ横丁へ立ち寄りました。
 

 僕が金シャチ横丁へ足を運んだのは、オープン当日の夜、4月の上旬(vol.1601)に続き、これが3度目で、今回はえびせんべいの里にて、えびせんべいの「わさび小花」を購入。
 

 次に移動して、少し早い昼食を済ませた後、午後からは本来の目的地へ。

 以下は余談。
 今日は風が強く吹いていて、車を運転して、信号で止まっていたら、車体が揺れました。

2018年5月18日金曜日

vol.1637 『ペテロの第二の手紙』(自己解説)

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 第一章
 一 イエス・キリストの僕また使途であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。
 二  神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
 第二章
 一三 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。
 第三章
 八 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
 一四 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
 

 人は誰しも皆、いや、僕に限って言えば、他人から顔のことを指摘されると、とても辛い。
 『ペテロの第二の手紙』に目を通したとき、とりわけ第三章が印象に残った。それと同時に「しみ」「きず」という単語にも。
 僕と直接会ったことのある人は、今更説明する必要もないことだが、僕の顔には子どもの頃のケガが原因の傷跡(へこみ)が右頬にある。さらに左頬にも傷跡と大きなホクロがあり、顔全体(目の周囲、鼻、頬)にシミとソバカスがたくさんあるのだ。

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生とお会いして、打ち合わせの後、楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 下の写真は先生と一緒に食べたアイスクリームです。
 

2018年5月17日木曜日

vol.1636 『ヨハネの第二の手紙』(自己解説)

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 一 長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。
 五 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。
 九 すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。
 一二 あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。
 一三 選ばれたあなたの姉妹の子供たちが、あなたによろしく。

 前回の更新(vol.1635)で取り上げた『ヨハネの第三の手紙』と同様に、手紙の差出人は長老である。受取人は婦人とその子たちとあるけれど、手紙の体裁としても、内容が「互に愛し合おう」と呼びかけたりして、何だか漠然としている。
 長老からのお願いとして、具体的な「教(おしえ)」が記されてはいるが、全体として、まるで念を押すかのようだ。
 

 「キリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者」とは、いったい誰を指すのだろうか。現代で言えば、街角に立っている2人組や休日の朝に訪問してくる人たちのことを指しているのだろうか。
 そうした人たちに限らず、新興宗教の信者たちは皆、奉仕活動やお布施(献金)などが大変だろう、と勝手な想像をしつつ、どうやって生計を立てて暮らしているのかと、僕はいつも不思議に思っている。
 信じることと、自己犠牲は違うはずなのに。僕の人生経験では、宗教(信仰)に限らず、恋愛だって、師弟関係でも、同じことが言えると思うのだけれども。