2017年12月30日土曜日

vol.1555 年末恒例の知多半島ドライブ

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 今日の午前中は拙宅に遊びに来ている甥っ子を連れて、年末恒例の知多半島ドライブへ行きました。
 下の写真はお土産を購入したえびせんべいの里です。
 

 今回は都合により大野谷虫供養へ足を運びませんでした。

 以下は余談。
 今年は(ここには詳しく書けませんが)3月下旬、6月上旬、11月下旬、12月上旬に大なり小なりの変化があって、中には尾を引いたりと、 辛くもやり過ごした一年でした。

2017年12月28日木曜日

vol.1554 ペット・サウンズ・レコードと Live cafe again 武蔵小山

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 前回の更新(vol.1553)からの続きで、過日、東京へ行き、岡本太郎のパブリックアートを目にした後、東急電鉄の武蔵小山駅へ向かいました。
 一昨年から、機会があれば、ぜひとも足を運んでみたい場所が武蔵小山駅前にありました。それはペット・サウンズ・レコードと Live cafe againで、どちらも僕が大好きなミュージシャンである村田和人さんと縁の深い場所です。
 下の写真はCDショップのペット・サウンズ・レコードで、僕がまだ持っていない村田和人さんのアルバム「Now Recording +」を購入。
 

 続けて、同ビルの地下にあるLive cafe againへ。ここは村田和人さんのライブが行われていた場所で、少し大げさに言えば、僕にとって聖地も同然の場所です。
 下の写真はLive cafe againの店内です(許可を得て撮影しています)。
 

 開店前だったのですが、店長の石川様からお声を掛けていただき、入店。コーヒーを飲みながら、時間の許すかぎり、村田和人さんのお話をたくさん聞かせていただきました(その際、恥ずかしいのですが、僕は少しばかり涙ぐんでしまいました)。これはきっと天国にいる村田和人さんが導いてくれたのだ、と。
 文末になってしまいましたが、Live cafe againの石川様には大変親切にしていただいたことから、この場を借りて、深くお礼申し上げます(本当にありがとうございました)。

 以下は余談。
 Live cafe againは知る人ぞ知るミュージシャンの大瀧詠一さんとも縁の深い場所です。大瀧詠一さんの曲の中で、僕が一番好きなのは「探偵物語」です(大瀧詠一さんの大ファンの人には、もっと他にあるだろうと、怒られるかもしれないけれど、理由としては、探偵物語を聴いていると、何だかインスピレーションが湧いてきて、何度でも繰り返し聴きたくなる曲だからです)。

2017年12月27日水曜日

vol.1553 世界のカバン博物館と岡本太郎の「統」

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 前回の更新(vol.1552)からの続きで、過日、東京へ行きました。
 下の写真は吾妻橋から見た東京スカイツリーやアサヒビールタワーなどです。
 

 台東区駒形にある世界のカバン博物館を見学しました。
 下の写真がそれで、カバンの歴史や文化を紹介したり、著名人の使用したカバン等も展示されていました。
 

 どうして世界のカバン博物館へ足を運んだのかと言えば、ユニークな博物館で興味があったからという理由もあるけれど、実はここにも岡本太郎の作品があると知ったから。
 下の写真がそれで、世界のカバン博物館の受付横に展示されている岡本太郎の「統」です。
 

 いつもながら、と言うか、子どもの頃から岡本太郎の作品を目にすると、僕は元気になります。きっとエネルギッシュな太郎さんのパワーが作品を通して、そうさせてくれるのでしょう。
 続けて、岡本太郎とは関係のない場所へ向かったのですが、別の話題となることから、次回の更新で。

 以下は余談。
 僕は都会で育ったことから、東京で暮らしている人が羨ましい。林立する高層ビル群の景色、移動の際のプラットホームや電車内での人間観察、最先端の技術や情報に触れたりと、東京へ行けば、早朝から深夜まで(実際、眠るのが惜しいほどに)見るもの聞くものが飽きず、刺激的で、退屈に事欠かない。今は悲しいかな、中途半端な田舎暮らしで、自分の住んでいる町が好きじゃない。かといって、引っ越すこともできず、ずっと諦めの毎日です(嘘偽りのない本音を書きました)。

2017年12月26日火曜日

vol.1552 岡本太郎の「芝 栄太楼」と「歓び」

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 過日、所用で東京へ行きました。
 下の写真は増上寺の三解脱門と東京タワーです。
 

 僕は東京へ行ったら、決まって空き時間にすることがあって、それはいつもブログにも書いているように岡本太郎のパブリックアートを目にすることです。
 下の写真は港区芝大門にあるビルの壁面に施された岡本太郎の文字です。
 

 下の写真は新宿区四谷にある持田製薬株式会社の玄関前にある「歓び」です。
 

 今の時期に合わせて、クリスマスツリーが一緒に飾られていました。
 続けて、他の岡本太郎の作品も目にしたのですが、別の話題となることから、次回の更新で。

 以下は余談。
 拙宅に姪っ子(10歳)が冬休みで遊びに来ていて、僕には子どもがいないことから、姪っ子と遊ぶのがとても楽しく、実に癒されます。なるほど、僕が姪っ子を遊ばせているのではなくて、姪っ子が僕と遊んでくれているんだな、と。そんな簡単なことが、今の年齢になって、遅まきながら、ようやく分かりました。

2017年12月24日日曜日

vol.1551 クリスマスに贈る詩

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 明日は更新できないことから、何かクリスマスにふさわしい話題はないかと考えてみた。だが、すぐには思い浮かばなかったことから、前回の更新(vol.1550)と関連した話題で、「僕が若かりし頃、心底、好きになった女性は(以下略)」と書いた彼女について、何かしら書いてみたくなった。
 といっても、別れた彼女との思い出を書くのは、正直言って恥ずかしい。
 以下は彼女の大学ノート(2代目のキャンパスノート)に書かれていた詩に、当時の僕が書き加えてできた詩を紹介したいと思う。詩のどこまでが彼女で、どこからが僕かは書かないけれど、これが僕にできた二人の最後になった。


 最初は友達だった

 好きだったものが
 一緒だと分かって
 たくさん たくさん
 お喋りしたね

 あなたは何でもないことで
 腹の底からゲラゲラ笑ったり
 私は突然のハッピーで
 流した嬉し涙が止まらなかったり

 ずっと一緒にいるって
 約束したけれど

 会いたくても
 会えなくなって 
 気持ちは変わらない 

 二人なら大丈夫だから
 いつも優しく励ましてくれた

 信じていたけれど
 ダメになったけれど

 私は泣き虫だから

 あれから離れ離れになっても
 あなたの笑顔を思い出して 
 何度も泣いたりしたけれど
 今は嬉しかったことだけしか思い出さないよ

 とても大事な
 本当に大切な
 あなたと私の思い出だから
 今の私の全部だから

2017年12月23日土曜日

vol.1550 僕の辞書、裏切る言葉

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 僕の辞書には、馬齢を重ねるごとに言葉が増える。それは誰しも一日一日を生きていれば、同じであろう。自分の使っている言葉は人生経験と表裏一体だ。箸使いのきれいな人に好感を持つように、僕は言葉遣いのきれいな人に憧れる。
 僕が若かりし頃、心底、好きになった女性は、出会って、ゆっくり話をしてみたい女性だった。別段、難しい話題ではなくて、ちゃんと普通に会話ができて、しかもだんだん話しているうちに心が楽しくなってくるような女性だった。彼女を抱いたときよりも、膝を交えて話をしていたときの方がずっと嬉しかった。
 子どもの頃から、長生きをすれば(毎日を懸命に生きれば)、それだけ言葉が豊かになると、僕は信じ込んでいた。けれど、実際はそうではなくて、失われていく言葉もあることを知って、愕然とした。例えるならば、雪が降って、積もるみたいに言葉は増えるが、一方で、融けて跡形もなく消えてしまう言葉もあるのだ。
 そもそも言葉というものは、人の命に似ている。生まれ、話されたり、書かれたりして、やがて死語になる。そして、人には言葉にはできない感情もある。とりわけ、悲しいや寂しいといった感情は言葉だけでは、そのすべてが伝わらない。何が悲しいのか、どうして悲しいのか、それを言葉にしなければならない。しかし、この世には言葉では説明できない、漠然とした悲しみもたくさんあるのだ。
 この世に不気味な力があるとしたら、それは核兵器ではない。誰もがいつも使っている言葉だ。人を殺すのに、凶器なんか必要ない。言葉はどんな刃物よりも鋭くて、人の心をズタズタに切りつける。発せられた言葉は時として、ピストルようにもなり、心に大きな穴を開けてしまう。微塵も容赦はしない。残酷な冗談で、その人を否定して、どん底に突き落としさえすればいい。さすれば、深い傷(致命傷)となって、殺したのも同然だ。体の傷は時間が経てば、自然と癒えるかもしれない。が、心の傷が簡単には癒えないことは誰もが知っている。
 冷たく、暗い闇の中に、その人を閉じ込めてしまうのが言葉ならば、それを救うことができるのも言葉だ。果たして僕の言葉はどちらだろうか。

 以下は余談というか、日記。
 毎年、身長は変わらないのに(178センチ)、今年は体重が60キロを超えそうになって、ひどく焦った。原因はやはりストレス過食だったのだろう。現在は少し元に戻って、57キロ。お腹の出た中年男は傍から見ても気持ちいいものではない。僕の年齢からすれば、致し方ないことかもしれないが、そうした中年男にだけは絶対になりたくない。太っていると重い病気になるかもしれないから、心身共にシャープであらねば(参考までに記すと、ジムに通うなどの運動もしていなければ、取り立ててダイエットもしておらず、もちろん、ちゃんと食事をしています)。
 下の写真は僕の体年齢で、いつ計測しても、実年齢より20歳以上も若いことから、やはり故障なのか。
 

2017年12月22日金曜日

vol.1549 アウトライダー2018年2月号の発売日

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 今日はアウトライダー2018年2月号の発売日です。
 下の写真は目次で、特集は「47都道府県 月めくり 期間限定の景色120選」となっています。
 

 僕が選んだ期間限定の素敵な景色も43ページに紹介されていることから、年末年始に書店へ足を運ぶことがありましたら、手に取っていただければ幸いです。

2017年12月17日日曜日

vol.1548 心の闇を書くということ

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 僕は人間の内面、とりわけ誰もが持つ心の闇を描くのを最も得意としていることから、どうしても文章のトーンが深刻になりがちで、読者の気分も暗くなる。そうした話を読むのが好きな人も少なからずいるので、僕の文章にも需要があることはあるのだけれども、広く一般受けはしないはず。ちなみに暴力や殺人といった攻撃的な場面は一切ないけれど、読んでいるうちにだんだんと苦になっているのが快感だ、とよく言われます(感想をいただけるのは、実に嬉しいです)。
 いずれにせよ、狂気や死を描くといった言葉の魔力には抗しがたく、少し力を込めて文章を書くと、気を付けていなければ、ついつい筆がそうした方向へと走ってしまうのだ。もちろん人間には好奇心があって、健康な男女ならば、誰しもそういう話題の嫌いな人はいないはず。
 人間の心理。この不安定で、複雑なものこそ、書くに値するのだ、という僕の意気込みは、別にしなければいけないと、頭の中ではハッキリと分かっている。だが、そう考えると、自分が書いた文章の中から、大切な何かが失われていくようで、顔のない文章になっていないか、という思いが頭をもたげる。
 少し話が逸れるけれども、文章の中身というものは、今の時代に流行の論理や説明解説(「だから何々というわけです」といった類の文章)でなく、自分はこう思うんだ、といった本心がなければ、読むに値しない。そして、それに対する反対意見もあっていいし、耳を貸さない、なんてことがあってはならない。
 目には見えない心の奥底に潜む闇の部分にこそ、その人の真実があるはず。そんなことを考えて(信じて)、僕はいつも文章を書いている。つい長々と書いてしまったけれど(少し前のいくつかの更新と併せて)、僕の暗いというか、重たい文章を読んでくださっている方々に対して、文末に深謝を記しておきます。

 以下は余談。
 「人前では努めて明るく振る舞うように」という恩師の教えを二十歳からずっと守っていることで、はじめて僕と直接、顔を合わしたり、話をしたりする人は、僕自身の印象と僕の書いている文章とのギャップに戸惑ったり、驚くことが多いです(もう慣れましたが)。

2017年12月16日土曜日

vol.1547 明日への備忘録

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 今日の午前中は所用で江南市へ行きました。
 下の写真はその際に久しぶりに立ち寄ったすいとぴあ江南です。
 

 木曽川の河川敷を歩いていたら、子どもたちがサッカーをしているのを目にしたり、ジョギングをしている人たちとすれ違いました。
 河川敷を歩いている僕が他人の目からはどう映っていたのだろう。
 冴えない中年男が仕事の息抜き(さぼっている)で、散歩しているなどと思われたのだろうか。いや、現実には、人間がそんなに赤の他人に関心を持つはずもなくて、僕の存在は点景描写のように誰にも気付かれていなかったはず。
 僕は目の前に広がった河川敷の景色を眺めながら、心の中では、ひとりで生きていく覚悟を再確認していたのだ。
 空は最初、薄日が差していた。けれど、雲がだんだんと広がって、時間の経つにつれ、風が冷たく感じられるようになってきたことから、車へと戻った。カーラジオを付けると、「クリスマスキャロルの頃には」が流れている。
 今年も残り半月となった。
 こうした何の変哲もないことでも、何かしら書いておかないと、自分が今日一日を何を想い、どう過ごしたかを忘れてしまう(思い出せなくなる)。そして、明日、明後日、一週間後、一ケ月後と、時間が経てば、記憶から完全に消えてしまう。
 さらに一年後、五年後、十年後、二十年後、いつになるかは分からないが、僕はもうここにはいない。

 以下は余談。
 円空仏を彫る際、最も苦心するのが顔(顔立ち)で、下の写真は最もシンプルに描いてみたのだが、実際の人間の顔(顔立ち)とは、大きく異なっていて、目はつぶっておらず、半眼で、微笑んでいる。
 

 このブログで、最近、円空さんに関する話題が少ないことから、備忘録ということで。

2017年12月15日金曜日

vol.1546 今年読んだマンガについて

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 久しぶりに本の話題で、僕はゲームの類を一切しませんが、昨年から話題作りのためにと、マンガを読んでいます。以下は今年に読んだ(読んでいる)お気に入りの漫画のタイトルと寸評です(順不同)。

 『弱虫ペダル』 荒北靖友のエピソードが「ハンパなくキモチイイ」(アニメも見てました)。
 『信長協奏曲』 信長ものは数あれど(アニメとドラマ、映画も見ました)。
 『ヘタコイ』 若くして亡くなられた作者に合掌。
 『町田くんの世界』 町田イズムの素晴らしい作品です。
 『恋するみつば』 『ういらぶ。』もいいけれど。
 『影野だって青春したい』 北川商店のパンダのタオルが欲しい。
 『アシガール』 「私らしい結末」を楽しみしています(ドラマは見ていません)。

 他にも、『君に届け』、『俺物語!!』、『高校デビュー』、『桃色ヘヴン!』、『徒然チルドレン』『謎の彼女X』などを読みました。
 下の写真は今朝、僕が描いた『町田くんの世界』の登場人物(主人公の町田君、町田の父、町田の母、叔母のカズミちゃん、クラスメートの猪原さんと栄さん)のイラストです。
 

 上記に挙げたマンガには、少なからず共通項があって、分かる人には分かるようになっているのだけれど、もし答えが分かれば、正直、驚かれるかもしれません。

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会の社会科見学に合流して、下の写真にあるようにノリタケの森へ足を運びました。
 

2017年12月13日水曜日

vol.1545 過ぎし楽しき時間(デート)

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 前回の更新(vol.1544)からの続きで、何かしら自身が経験した恋愛話を書けないかなと、記憶の底を揺り起こして、以下に紹介できる範囲で(デートの一コマです)。

 夕暮れの波打ち際を二人で並んで歩いている。
 突然、彼女がしゃがんで、砂の上に落ちている何かを拾った。
 僕は貝殻だと思った。
 彼女が拾ったのは、水色をしたガラスの破片だった。
 僕が尋ねた。
 「どうするの?」
 彼女は「ひ、み、つ」と答えながら、片目をつぶって、くすっと笑った。
 僕は自分が大好きな中原中也の「月夜の浜辺」の一節をそらんじた。

  月夜の晩に、ボタンが一つ
  波打際に、落ちていた。
  それを拾って、役立てようと
  僕は思ったわけでもないが
    月に向ってそれは抛れず
    浪に向ってそれは抛れず
  僕はそれを、袂に入れた。

 彼女は黙って、海を見ていた。
 二人で再び歩き出すと、彼女が「ボタンじゃないから」と言った。
 僕が「そうだね」と相槌を打つ。
 海からの潮風が音を立てて、ひときわ強く吹いた。
 彼女が立ち止まり、両手で乱れた髪を抑えた。
 彼女の肩を抱き寄せて、僕からキスした。
 彼女が手に持っていたはずのガラスの破片が砂の上に落ちている。
 僕はしゃがんで、砂の上に落ちているのを拾った。
 彼女が尋ねた。
 「どうするの?」
 僕は立ち上がって、それを上着のポケットに入れた。
 彼女がすかさず「返してよ」と、右手を伸ばしてくる。
 僕は左手で彼女の右手首をつかんでひねると、「返すから、手のひらを見せて」と。
 彼女が握ったこぶしをゆっくりと開く。
 僕は上着のポケットから取り出して、彼女の手のひらの上に置くと、左手を放した。
 それはガラスの破片ではなくて、あらかじめ用意しておいた貝殻のブレスレット。
 彼女が少し驚いたような顔をした後、小さな声で何かをつぶやいたのだが、波音に消されて、僕には聞きとれなかった。
 彼女は自分で左手首にブレスレットを付けると、そのまま左手を高く上げて、夕暮れの空を見上げている。
 僕も横に並んで、空を一緒に見上げていたら、左手をそっとつかまれた。
 お互いにつかんだ手の指を絡めて、自然と恋人つなぎになった。

 後日談を併せて紹介。
 彼女は僕に右手首をつかまれた際、本当は痛かったの、と教えられた。彼女がすぐに手のひらを見せなかったのは(彼女が握ったこぶしをなかなか開こうとしなかったのは)、それが原因だった。僕は緊張していて、つかんでいた左手に思わず力が入っていたようだ。
 ということで、若かりし頃の僕は自分で少しばかり格好良くできたかなと、得意がっていたけれど、実はそうでもなかったらしい。

2017年12月12日火曜日

vol.1544 恋愛の瞬間

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 僕は悲しいかな、一目惚れをした経験がない。誰しも(僕にも)好みのタイプがあるはずだと思うけれど、今まで付き合った異性たちを振り返ってみても、彼女たちには共通項(髪型、顔立ち、声、体形など)がない。だから、相手のどこに魅かれたのか(「私のどこが好きか」)と問われたり、体か心かの二者択一ならば、答えは決まっている。僕の人生はこれからも恋に落ちるという経験のないまま、過ごすことになるのだろう。
 過去の失敗を含んで鑑みると、僕の恋の形は胸が痛くなる、僕の愛の形は相手を信じ抜く、といった形で、いささか不器用なのかもしれない。他の人のことは分からないけれども、僕も僕なりに女性に対して、耳元で甘い言葉を囁いたり、食事をしたり(二十歳を過ぎてからは、お酒の力を借りたり)といった様々な手段や駆け引き(これ以上は具体的には書けません)をした。もちろん、相手を喜ばせたいという気持ちが心の底にあったことは言うまでもない。
 男女が誰でも経験するような場面(ラブシーン)をここでは書かない(そうしたことを期待されていた読者には大変申し訳ない)。というか、恥ずかしくて書けない。世間には男性が女性の心をよく分かって、それを書いた文章も多々あるけれど、僕にはそのような文才はない。ましてや、彼女たちと出会って、関係を結んで、別れたといった自身の経験は、僕の大切な思い出であって、他人(読者)とは共有できない。
 余計なことだけれども、現代日本の恋愛は残念なことに物質主義の檻に閉じ込められているようで、明治や大正といった一昔前の頃と比較して、(とりわけ女性は)ずっと自由になったはずが、別の不自由に陥っている(そうした時代には、男と女は結婚するものという大前提を疑う余地はなく、当時の女学生たちは男女交際しただけで揶揄され、非難された)。また、当時の女性に対する「奥ゆかしい」といった褒め言葉も今や死語かもしれない。
 最後に僕の場合、恋愛に関しては墓場まで持って行かなければならない情事があって、結婚に関しては独身だから何一つ語る資格がありません。

 以下は余談。
 長谷川泰子述・村上護編『ゆきてかへらぬ』には、下のような文章があって、思い出すたびに僕の胸に迫るものがあります。
 
 その人は傘を持たず、濡れながら軒下に駆けこんで来て、私を見るなり、「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。私はハッとして、その人を見ました。(中略)その人は雨の中から現われ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。

2017年12月11日月曜日

vol.1543 好きな言葉、嫌いな言葉

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 僕には好きな言葉と嫌いな言葉がある。文章を書くときにも、それは意識していて、好きな言葉は気に入っている証拠で、文中に頻繁に出てくる。多くの人が好ましくないと思っている言葉でも、僕には好きな言葉があり、「後悔」はそれにあたる。「死」を連想する言葉も本質を突くことから、僕は決して嫌いではない。
 反対に嫌いな言葉は「現実」と「途中」で、これほど恐ろしくて、重い言葉はない。自分の力では、どうしても変えられないものが、そこにはあって、(まるで底なし沼に落ちて行くような)言葉の重力みたいなものを感じる。一度は経験しているけれども、再度、何の前触れや心構えもなく、それらがやって来たとしたら、僕には二度と耐えきれる自信がない。それほど恐ろしい。
 「不安」な気持ちなどは言葉が救ってくれる(正確には「救ってくれる言葉がある」かもしれない)。誰かが誰かのために発する言葉の中には、慰めてくれたり、勇気をくれたりする言葉もたくさんあることは言うまでもない。
 他の人のことは知らないけれど、僕に限って言えば、何のために言葉を書くのか、という疑問は、誰のために言葉を書くのか、という質問に置き換えることができる。相手を退屈させたり、ましてや傷つけてはいけない。僕が書く言葉は、誰かを守ったり、誰かを楽しませたりするためにあると思っている(この場合の誰かと言うのは、僕が大切に思う人のことです)。

 以下は余談。
 集英社『kotoba』の最新号に長谷川公茂先生が撮影した円空仏(荒子観音寺所蔵の木端仏)の写真が掲載されています。
 下の写真が最新号の表紙です。
 

vol.1542 JRAカレンダーオリジナルカレンダー2018

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 昨日の午前中は昨年と同様(vol.1383)、下の写真にあるようにウインズ名古屋へ行きました。
 

 目的は馬券購入ではなく、長年使用しているJRAオリジナルカレンダーを入手するためで、下の写真が表紙です。
 

 毎年、JRAカレンダーオリジナルカレンダーを入手するたびに、僕は馬齢を重ねてしまったと、否応なく気付かされてしまう。

2017年12月10日日曜日

vol.1541 大一美術館コレクション名品展「2大巨匠名品との出会い」

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 前回の更新(vol.1540)からの続きで、豊山町のマンホールカードをゲットした後、名古屋市中村区にある大一美術館へ行き、コレクション名品展「2大巨匠名品との出会い」を見てきました。
 下の写真が大一美術館です。
 

 タイトルに記されている2大巨匠とは、エミール・ガレとディル・チフーリで、併せてルノワールも特別展示されていました。
 師走も10日目になったことから、今年、足を運んだ美術館や博物館の類を整理すると、岐阜県博物館、とうしん美濃陶芸美術館、名古屋市美術館、国立科学博物館、岩田洗心館、名古屋市博物館、メナード美術館、安城市歴史博物館、碧南市藤井達吉現代美術館、三重県総合博物館、四日市市博物館、美濃焼ミュージアム、豊田市近代の産業とくらし発見館、松坂屋美術館、古川美術館、笠松歴史未来館、江南市歴史民俗資料館、愛知県陶磁美術館、一宮市三岸節子記念館、一宮市尾西歴史民俗資料館、横山美術館で、例年と比較して、ずいぶん少なかったように感じます。

2017年12月9日土曜日

vol.1540 豊山町のマンホールカード

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 今日からマンホールカードの第6弾が配布されるとのことで、今朝は西春日井郡豊山町へ向かい、配布場所のひとつである豊山町役場へ行きました。
 下の写真が豊山町役場で、土曜日(閉庁日)だったことから、通用口へ。
 

 下の写真がゲットした豊山町のマンホールカードです。
 

 次に名古屋市中村区へ行きましたが、別の話題となることから、次回の更新で。

 以下はいつもと少し違う余談で、文章を書くということは、楽しいことやキレイごとばかりを並べ立ててみても、片手落ちだ。悲しいことや裏側も書かなければ、何の意味もないと僕は思っている。
 男と女の言い争いほど醜いものはない。
 仲直りできずにいるのも。
 深夜、彼女がベットから出たのに気が付いた。
 彼女の枕が濡れている。
 彼女の姿を探したら、トイレの明かりがついていた。
 トイレの中から、彼女の声がかすかに聞こえる。
 僕は何も考えず、扉を開けた。
 彼女が両手で顔を塞いで、声を押し殺して泣いていた。
 あなたに泣き顔を見られるのは嫌だから、と。

2017年12月5日火曜日

vol.1539 時間の謎

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 更新の頻度が極端に減ったけれど、話題がなかったわけではない。実を言うと、先々月くらいから、突如として、僕の中で、一日が12時間しかないような感覚というか、物凄いスピードで時間が過ぎ去って行くように感じられることが、しばしば起こっており、心の中に何かしら恐怖のようなものを覚えている。
 ふと時計を見たら、自分が考えている以上(具体的には倍の時間くらい)に針が進んでいて、朝早く起きたのに気が付いたら、夜になっているという具合だ。一般的に言われる仕事や家事、子育てに忙しいとか、楽しい時間があっという間に過ぎるといったのとも違っている。
 時間の飛び去った日は就寝前、いくら思い出そうとしても、その日一日何もしていないような感覚に襲われる。しかしながら、現実には、朝昼晩と3食ちゃんと食事をして、車を運転したり、人と会話をしたりといった、ごく普通の日常生活を送っているのだ。
 これまでの人生で似たような経験がなかったわけではないけれど、僕の足りない頭では、いくら考えても分からない。まるで迷宮に彷徨っているかのようで、出口が見えない。
 ちなみに今朝は午前3時に起床したのに、いつの間にか、もうこんな時間(午後9時過ぎ)になっている。

 以下は余談。
 前回の更新(vol.1538)と関連するのですが、今日のお昼休みは久しぶりにオクラを彫りました。
 下の写真がそれで、材料(かやの木)はクローバーのアイデアを出していただいたSさんから頂戴しました(この場を借りて、感謝を申し上げます)。
 

2017年12月4日月曜日

vol.1538 続 木彫り作品 クローバー

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 前回の更新(vol.1537)で書いた木彫り作品のクローバーですが、いつもお世話になっている「円空仏彫刻・木端の会」のSさんからのアイデアを参考にして、以下の写真にあるように完成しました。
 

 今までに、りんご、イチョウ、落花生、ドングリ、栗、枝豆、オクラ、クルミ、ギンナン、ミョウガ、ソラマメ、シシトウガラシ、絹さやを彫っていましたが、クローバーはどうしても完成した作品のイメージが湧かずにいたことから、この場を借りて、Sさんへ感謝を申し上げます。

 以下は余談。
 先週末にトレード用のダムカードとマンホールカードを補充しました。