2018年5月31日木曜日

vol.1649 『箴言』第二〇~二四章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1648)からの続きで、『箴言』の解釈。

 第二〇章
 二二 「わたしが悪に報いる」と言ってはならない、主を待ち望め、主はあなたを助けられる。
 第二二章
 一七 あなたの耳を傾けて知恵ある者の言葉を聞き、かつ、わたしの知識にあなたの心を用いよ。
 一八 これをあなたのうちに保ち、ことごとく、あなたのくちびるに備えておくなら、楽しいことである。
 一九 あなたが主に、寄り頼むことのできるように、わたしはきょう、これをあなたにも教える。
 二〇 わたしは、勧めと知識との三十の言葉をあなたのためにしるしたではないか。
 

 主との関係が記されている。どうすればよいのか、迷ったときは、こうすればいい、と。
 僕の勝手な解釈を記せば、主はいつでもそばにいるから、寄り添いなさい、と。いつもそばにいて、背中を押してくれる存在ほど、心強いものはないだろう。
 僕のような青二才の解釈では、不充分だろうから、すぐにも読めるジョイス・マイヤー著『平安 心からの安心』(参照)を付け加えておくことにする。彼女は話上手だから、いろいろと気付かせてくれるのだ。

 以下は余談。
 以前の更新(vol.1615)でも書きましたが、30年先を見据えたプロジェクトがいよいよ大詰めを迎えつつあります。
 

2018年5月30日水曜日

vol.1648 『箴言』第一六~一九章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1647)からの続きで、『箴言』の解釈。

 第一六章
 二四 ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。
 三一 しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。
 三二 怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。
 三三 人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。
 第一七章
 一〇 一度の戒めがさとき人に徹するのは、百度の懲らしめが愚かな人に徹するよりも深い。
 第一九章
 一四 家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。
 

 「ここちよい言葉は(中略)からだを健やかにする」、「しらがは栄えの冠である、正しく生きること」、「自分の心を治める」、「一度の戒めがさとき人に徹する」、「事を定めるのは全く主のこと」、「賢い妻は主から賜わるもの」とあって、いずれもまさに今の僕が人生を感じる言葉で溢れていた。
 それにしても、『聖書』には蜂蜜がよく出てくる。キリスト教だけでなく、仏教の説話にも、蜂蜜は出てくる。洋の東西を問わず、やはり蜂蜜は凄いな、と。

 以下は余談。
 『機動戦士Zガンダム』に登場するクワトロ・バジーナ(シャア・アズナブル)のセリフに「他に食べる方法を知らんからさ。だから未だに嫁さんも貰えん」があって、僕のお気に入りのセリフの一つ。軍人(モビルスーツのパイロット)と同様、オートバイ乗りもそうかもしれないと思っていたけれど、「主から賜わるもの」ならば、致し方ありませんね。僕は「好みのタイプの女性は」と聞かれて、いつも「聡明な女性」と答えていたから、なおさらです。無駄話が過ぎました。

2018年5月29日火曜日

vol.1647 『箴言』第一〇~一五章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1646)にて、『聖書』以外の本の話題を取り上げたけれど、今の僕にとっては、『聖書』以上に面白く、ためになる本は他に見当たりません。
 前々回の更新(vol.1645)からの続きで、『箴言』の解釈。

 第一四章
 一二 人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。
 一三 笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある。
 第一五章
 一 柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。
 一三 心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。
 一五 悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会をもつ。
 二三 人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。
 

 人が正しく生きて行くということ(一二)は、そういうことだ、との教訓。
 感情を表す「笑う」「悲しみ」「喜び」「憂い」「憤り」「怒り」について記されている。「顔色も喜ばしい」と「気はふさぐ」もある。
 「悩んでいる者の日々はことごとくつらく」とあり、僕にもそんな日々があった。本当に辛かった。今でも思い出すだけで、どうしても涙があふれ出てしまい、止まらなくなる。
 きっと誰にもあることなのだろう。だから、こうして『箴言』に記されているのだ。
 それを救ってくれるのは、「口から出る好ましい答」であり、「時にかなった言葉」なのかもしれない。

 以下は余談。
 昨今の政治のニュースを見聞きするたびに、なぜ安倍首相と夫人を庇わなければならないのか、僕は理解に苦しむ。なるほど権力者というものは、まさにそういうもの(裸の王様)なのか、と。そして、裸の王様を取り囲んでいる人たちは、自らの土台が崩れかかっているのに気づかないふりをしているのだろう。

2018年5月28日月曜日

vol.1646 『聖書』以外の、最近の読書

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 このところ『聖書』の話題が中心になっていますが、他の本ももちろん目を通しています。
 下の写真の9冊がそれで、手に取った順に記すと、北嶋廣敏『字源の謎を解く』、矢野新一『名古屋はヤバい』、大貫隆『聖書の読み方』、加藤秀俊『社会学 わたしと世間』、橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』、八木谷涼子『キリスト教の歳時記』、倉田百三『新版 法然と親鸞の信仰』、来住英俊『キリスト教は役に立つか』、貴田庄『志賀直哉、映画に行く』です。
 









 それぞれの感想を簡潔に記すと、『社会学 わたしと世間』で久しぶりに加藤秀俊さんの著書に目を通しました。『新版 法然と親鸞の信仰』で倉田百三の、その他の著作を読んでみたくなりました。
 『キリスト教は役に立つか』は今回取り上げた中で、最も面白く読みました。
 『志賀直哉、映画に行く』は志賀直哉が確かに映画を見に足繁ぐ通っていたと気付かされました。
 上記の9冊の他にも、今日は『ココハナ』7月号に掲載の「アシガール」を読みました。

 以下は余談。
 尊敬する恩師のK先生から、今日お返事が届いて、K先生は火野葦平、アルトゥル・シュニッツラーやシャルル=ルイ・フィリップを再読しているとのこと。

2018年5月27日日曜日

vol.1645 『箴言』第一~九章(自己解説)

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 第一章
 九 それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。
 第四章
 一三 教訓をかたくとらえて、離してはならない、それを守れ、それはあなたの命である。
 一八 正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。
 一九 悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。
 二五 あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。
 第六章
 二二 これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを守り、あなたが目ざめるとき、あなたと語る。
 

 とりわけ僕の心に刺さったのは、第四章第二五節で、一文に「まっすぐ」という言葉が繰り返し2回も使われている。ただ「正面」「前」を見るのではなく、まっすぐに、との教訓が一層深く感じる。それはまるで長谷川公茂先生がいつも口にされている「観音菩薩は音を観じる」との言葉のように。
 『箴言』は長いことから、続きはいくつかに分けたいと思う。その方が読者にも親切だから。

 以下は余談。
 朝一番に『佛説 摩訶般若波羅蜜多心経』を唱えると、気持ちが清々しくなります。せっかくの清々しい気持ちも今日のように一日を終える頃には、台無しになることが多いのも残念な事実。いつものように就寝前に『聖書』に目を通して、「般若心経」を唱えたら、また明日ということで。

2018年5月26日土曜日

vol.1644 『ヨナ書』(自己解説)

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 第一章
 一七 主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

 『ヨナ書』は映画『ピノキオ』のモデルとなったらしい。

 第四章
 一一 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

 短いから、一気に最後まで読んでしまい、まるで短編小説にも似た読後感を僕は覚えた。それにしても、不可解なストーリーだ。いや、正確に記すと、ヨナの振る舞いが、で、のがれて、誓いを果たして、従い、激しく怒る。そうしたヨナと主とのやりとりがあって、最後は「十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜」が救われた、という「落ち」だ。

 以下は『マタイの福音書』第一二章の抜粋。

 四〇 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
 四一 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

 先入観を持たないようにと心掛けていることで、『聖書』に関しての知識が乏しい僕にとって、あたかも『ヨナ書』は『マタイの福音書』第一二章のプロローグのようだ。

 以下は余談。
 今日の午前中、ちょっと嬉しいことがあって、日頃頑張っているご褒美にと、自分で自分を抱きしめてみたら(セルフハグ)、自分の肉体が見事なまでに骨と皮しかないことを改めて実感しました。実際、この数年間に温泉やサウナ等で、自分より細い(痩せている)身体の男性を目にしたことがありません。やはりセルフハグというのは女性だけにしか効果が無いようで。

2018年5月25日金曜日

vol.1643 『伝道の書』第七~一二章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1642)からの続き。

 第七章
 一七 悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 第八章
 八 風をとどめる力をもつ人はない。また死の日をつかさどるものはない。戦いには免除はない。また悪はこれを行う者を救うことができない。
 第九章
 五 生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。
 一〇 すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。
 第一二章
 八 伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。
 九 さらに伝道者は知恵があるゆえに、知識を民に教えた。彼はよく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。
 一〇 伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。

 僕がここで心に留めた言葉は、いずれも生死に関する事柄だった。
 「あなたの行く陰府には」とあることから、人は誰しも皆、最後はそこへ行くのだろうか。できればそこは僕が二十歳の頃から強く願っている欣求浄土であってほしい。
 冒頭「空の空」から始まり、終わりも「空の空」であった。
 

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生とお会いして、打ち合わせの後、楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 

2018年5月24日木曜日

vol.1642 『伝道の書』第一~六章(自己解説)

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 第一章
 二 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
 九 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

 冒頭に「空」という難解な題目が出てきて、僕としては、大いに心を掴まれた。しかし、読み進めるうちに、説教臭いというか、厭世的というか、読んでいて、(信仰に)励まされるけれど、心弾むところが感じられない。と、同時に『伝道の書』は格言がちりばめられていて、どこを選ぶかが難しい。これほど語りにくいのは初めてだ。語りたくても語れないのはなぜか。僕の人生経験が足りないのかもしれないと考えると、その輪の中に入れなくて、寂しい。

 第三章
 一 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
 二 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
 三 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
 四 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
 五 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
 六 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
 七 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり
 八 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

 対の関係にあって、とりわけ「悲しむ」が「踊る」となっていたのには、なるほどと感心させられた。

 第五章
 四 あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。
 五 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。

 逆説的というか、だからこそ、誓いを果たさなければならない。そう思えるし、僕はそのようにして、今、生きている(「Stay The Young」)。五を前提として、四を結論とする逆の順序で読めば、言葉の凄みがよく分かる。僕は自分の生き方に対して、背中を叩かれ、力強く励まされた。
 『伝道の書』は全部で十二章あることから、半分に分けて、第七章以降は次回の更新で。

 以下は余談。
 今、午前5時だ。雨上がりの空にいろんな鳥たちのさえずりが響いている。
 昨夜の就寝時間は午後11時半で、今朝は午前4時起床。朝食を済ませて、朝刊にざっと目を通した後、これを書いている。

2018年5月23日水曜日

vol.1641 磐田市のマンホールカードとららぽーと磐田

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 毎年、この時期の恒例である楽しい静岡周遊ですが、今年は昨日、O君の道案内で、磐田市へ行きました。
 JR磐田駅前にある観光案内所にて、磐田市のマンホールカードをゲット。
 


 続けて、ららぽーと磐田へ立ち寄り、お買い物の後、休憩タイム。
 


 浜松市へ戻り、僕のリクエストで、例によって、福みつの餃子を食べました。
 

 餃子の皮がカリッとサクサクなのは僕の好みで、漬物が少し苦手な僕でも美味しく食べられます。
 

 最後は久しぶりに太平洋を目にしました。
 

 文末になってしまいましたが、いつも気を遣ってくれるO君へ感謝の言葉を。楽しい時間をありがとう。

2018年5月21日月曜日

vol.1640 『ヤコブの手紙』(自己解説)

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 第一章
 三 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
 一四 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
 一五 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
 一九 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

 上を読んだとき、「口はひとつ、耳はふたつ」とのことわざを思い浮かべた。語るよりも聞くことがコミュニケーションの基本だと、僕に教えてくれたのは、いつも年上の女性だった。

 第三章
 一 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
 二 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
 三 馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。
 四 また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
 五 それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
 六 舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
 七 あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。
 八 ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。
 九 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
 一〇 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。

 僕は教師という職業を微塵も尊敬しない。僕がこの世で初めて出会った悪い大人(不正な他人)は小学校の担任教師であった。僕が何事に対しても、これだけは譲れない条件の一つとして、師匠(上司や先輩も)を選ぶのは、そうした理由からだ。
 これをひっくり返して言えば、素晴らしい先生を見つけることが、学ぶこと(上達)の秘訣で、他には何もいらない。さらに言えば、「学ぶこと」を「生きること」に置き換えても、同じ意味になる。
 たとえば、円空さんを知りたいならば、長谷川公茂先生の教えがすべてで、「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候(『歎異抄』)」と記されている法然上人と親鸞聖人のように。
 このところ、『聖書』に関する更新が続いているけれど、『歎異抄』の素晴らしさについては、いつか機会があれば、書いておきたいと、常々思っている。
 話題を戻して、率直に書くと、僕にとって、『ヤコブの手紙』は第三章に収斂される。幾度も読み返しては、自戒とする箇所が第三章だから。
 「舌は火である。不義の世界である」ということは、自分自身が発する言葉は慎重に選んで、大事に使いたい。
 

 第五章
 一五 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。

 以下は余談。
 少し前の更新(vol.1632)でも書きましたが、『聖書』に目を通すだけで、実に日本語の勉強になります。学が無い僕は『聖書』に書かれていた「煩勞(いたづき)」という言葉を初めて知りました。

2018年5月20日日曜日

vol.1639 『ピリピ人への手紙』(自己解説)

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 第一章
 一 キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
 第二章
 二七 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。
 第四章
 六 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
 七 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
 一〇 さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
 一一 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
 

 『ピリピ人への手紙』の全章を通読して、差出人による、ただならぬほどの固い決意のようなものを感じた。
 とりわけ第四章には、僕のようなネガティブ思考の人間が心に留めておかなければならない言葉がちりばめられていた。「何事も思い煩ってはならない」「事ごとに、感謝をもって」「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」「足ることを学んだ」と。
 『聖書』の言葉はいつも、いつでも力強くて、優しい。迷ったときには、力を抜いたり、背中を押したりしてくれるのだ。

2018年5月19日土曜日

vol.1638 金シャチ横丁 えびせんべいの里

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 今日の午前中は名古屋城の近くにある金シャチ横丁へ立ち寄りました。
 

 僕が金シャチ横丁へ足を運んだのは、オープン当日の夜、4月の上旬(vol.1601)に続き、これが3度目で、今回はえびせんべいの里にて、えびせんべいの「わさび小花」を購入。
 

 次に移動して、少し早い昼食を済ませた後、午後からは本来の目的地へ。

 以下は余談。
 今日は風が強く吹いていて、車を運転して、信号で止まっていたら、車体が揺れました。

2018年5月18日金曜日

vol.1637 『ペテロの第二の手紙』(自己解説)

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 第一章
 一 イエス・キリストの僕また使途であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。
 二  神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
 第二章
 一三 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。
 第三章
 八 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
 一四 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
 

 人は誰しも皆、いや、僕に限って言えば、他人から顔のことを指摘されると、とても辛い。
 『ペテロの第二の手紙』に目を通したとき、とりわけ第三章が印象に残った。それと同時に「しみ」「きず」という単語にも。
 僕と直接会ったことのある人は、今更説明する必要もないことだが、僕の顔には子どもの頃のケガが原因の傷跡(へこみ)が右頬にある。さらに左頬にも傷跡と大きなホクロがあり、顔全体(目の周囲、鼻、頬)にシミとソバカスがたくさんあるのだ。

 以下は余談。
 今日の午後は長谷川公茂先生とお会いして、打ち合わせの後、楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 下の写真は先生と一緒に食べたアイスクリームです。
 

2018年5月17日木曜日

vol.1636 『ヨハネの第二の手紙』(自己解説)

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 一 長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。
 五 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。
 九 すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。
 一二 あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。
 一三 選ばれたあなたの姉妹の子供たちが、あなたによろしく。

 前回の更新(vol.1635)で取り上げた『ヨハネの第三の手紙』と同様に、手紙の差出人は長老である。受取人は婦人とその子たちとあるけれど、手紙の体裁としても、内容が「互に愛し合おう」と呼びかけたりして、何だか漠然としている。
 長老からのお願いとして、具体的な「教(おしえ)」が記されてはいるが、全体として、まるで念を押すかのようだ。
 

 「キリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者」とは、いったい誰を指すのだろうか。現代で言えば、街角に立っている2人組や休日の朝に訪問してくる人たちのことを指しているのだろうか。
 そうした人たちに限らず、新興宗教の信者たちは皆、奉仕活動やお布施(献金)などが大変だろう、と勝手な想像をしつつ、どうやって生計を立てて暮らしているのかと、僕はいつも不思議に思っている。
 信じることと、自己犠牲は違うはずなのに。僕の人生経験では、宗教(信仰)に限らず、恋愛だって、師弟関係でも、同じことが言えると思うのだけれども。

2018年5月16日水曜日

vol.1635 『ヨハネの第三の手紙』(自己解説)

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 一 長老のわたしから、真実に愛している親愛なるガイオへ。
 九 わたしは少しばかり教会に書きおくっておいたが、みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれてくれない。
 一一 愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者である。
 一二 デメテリオについては、あらゆる人も、また真理そのものも、証明している。わたしたちも証明している。そして、あなたが知っているとおり、わたしたちの証明は真実である。

 手紙の差出人は長老で、受取人はガイオである。文中には、デオテレペスとデメテリオの名前が出てくる。
 長老はガイオに宛てて、真理のうちを歩いて、善にならうように、と。
 文末は以下のとおりに結ばれている。
 

 一三 あなたに書きおくりたいことはたくさんあるが、墨と筆とで書くことはすまい。
 一四 すぐにでもあなたに会って、直接はなし合いたいものである。
 一五 平安が、あなたにあるように。友人たちから、あなたによろしく。友人たちひとりびとりに、よろしく。

 『ヨハネの第三の手紙』を読み終えた後、なぜだか僕は永遠に会えなくなった人たちの顔を思い浮かべた。あの人やこの人のことを。
 そして、僕にも、これを読んでいるあなたにも、平安があるように、と。

 以下は余談。
 僕の口癖の一つは「馬齢を重ねる」で、ブログの中にも頻繁に出てくると自覚しています。事実、馬齢を重ねたからこそ、今日この頃になって、「生きているんじゃない、生かされているんだ」と心底思えるようになりました(だから、いつか死ぬことも)。

2018年5月15日火曜日

vol.1634 名刺代わり、お礼代わりの千面菩薩

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 過去の更新で何度も書いているけれど、僕が彫った像高約4センチの千面菩薩を名刺代わりに、お礼代わりにと、人に差し上げたり、奉納したりしている。
 昨日、在庫が無くなったので、今朝、久しぶりに下の写真にあるように彫ったのだけれど、最近になって、急激に老眼が進んで、もう思うように彫れない。
 

 指先ほどの小さなお顔の微笑みを彫ることは僕の使命の一つだと、自分勝手に思い込んでいるけれども、円空さんも僕の円空彫りの師匠である故Y様も老眼鏡を掛けて彫っていないことから、そろそろ限界かもしれない。

2018年5月14日月曜日

vol.1633 山県市の消防カードとてんこもり農産物直売所

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 今日は山県市へ行きました。
 久しぶりに山県市消防本部へ立ち寄って、下の写真にあるように全国消防カードをゲット。
 

 次に某所へ向かい、用事が済んだ後、少し走って、てんこもり農産物直売所にあるレストランで、昼食に下の写真にあるように生姜焼き定食を食べました。
 

 てんこもり農産物直売所はどうやら旧伊自良村だった地域にあるらしく、僕が(旧伊自良村地区へ)足を運んだのは今日が初めてでした。

2018年5月13日日曜日

vol.1632 『ルツ記』第一~四章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1631)からの続きで、ミレーの「落穂拾い」との関連については、広く知られていることから、改めて書く必要はないだろう。

 第三章
 九 「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた、「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い親戚です」。
 

 冒頭に出てくる「さばきつかさ」とルツが自分自身を指して「はしため」と表現した2つの言葉は僕自身が文章を書く上で、ほとんど使ったことがない。それだけでも『ルツ記』を読んだ甲斐があった、と言えよう。
 母国語で、知らない言葉を覚えて、それを使うことが、いかに大事かということを今の教育は重視しない(英語偏重)。明治時代に翻訳に尽力した先人たちを誇らしいと思う。横文字を使うことが、さも優れているかのような言葉遣いの人を僕は尊敬しない。
 ドーデの「最後の授業」(いろんな批判があるのは承知している)や川端康成の「母国語の祈祷」などは、読んで、感動することから、やはり素晴らしい作品だと思う。
 話を戻すと、『ルツ記』には、レビラト婚やゴーエールといった僕には馴染みのない事柄も出てくる。しかしながら、幸不幸、ナオミ(姑)とルツ(嫁)の関係、オベデの誕生といった人間味の溢れる内容となっている。

 以下は余談。
 昨日の午前中は長谷川公茂先生の写真撮影のお手伝いで、楽しい時間を過ごして、大変勉強になりました。

2018年5月11日金曜日

vol.1631 『レビ記』第一九章、第二三章(自己解説)

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 ゴールデンウィークにいつもはできないことをしたいと思い、『ヨハネによる福音書』を読んだ(vol.1625他)。これまでにも人生の中で、折にふれて『聖書』を読んだが、これから少しずつ落穂拾いのように読み進めることにした。
 どこをどれだけ読むかは決めず、心の赴くままにページを眺めたい。

 『レビ記』
 第一九章
 九 あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。
 十 あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 第二三章
 二二 あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。
 

 『レビ記』に記された落穂拾いに関する箇所を読み直して、「貧しい者と寄留者のために」という言葉を改めて目にしたとき、今、世界で起きている紛争の大半が解決するのではないか、と。そして、そうした紛争から逃れてきた難民の問題も同様に。

2018年5月9日水曜日

vol.1630 ゆるキャラトレカいちみんと藤ヶ森観音堂の円空仏

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 前回の更新(vol.1629)からの続きで、昨日の午後は一宮市へ行き、長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。次に尾張一宮駅前ビル1階にある一宮市観光案内所にて、ゆるキャラトレカとマンホールカードをゲット。
 下の写真の画面左がゆるキャラトレカで、画面右がマンホールカードです。
 

 ゆるキャラトレカの話題については、今回が初めてということもあり、少し説明すると、ゆるキャラグランプリの公式トレーディングカードで、その第1期として「くまもん」等と共に、一宮市のマスコットキャラクターである「いちみん」も発行されています。
 さらに所用で、別の場所へ向かいましたが、ここでは割愛します。

 以下は余談。
 先週末のことになりますが、ゴールデンウィークの最終日、下呂市萩原町宮田にある藤ヶ森観音堂(無量堂)の円空仏が公開されました。
 下の写真が藤ヶ森観音堂(無量堂)です。
 

 今から4年前の夏(vol.900)、僕が足を運んだ際には、地元の人たちでもほとんど目にしたことがない、ということで、藤ヶ森観音堂の真っ暗な堂内に埃を被って安置されている円空仏を拝んだときは、嬉しい気持ちとありがたい気持ちとで、思わず手を合わせたことを懐かしく思い出しました。

2018年5月8日火曜日

vol.1629 「機動戦士ガンダムTHE ORIGIN誕生 赤い彗星」と一宮円空会

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 ゴールデンウィークが終わり、昨夜は精神的な疲労がピークでしたが、今朝になって、やれやれ、ホッと一息つけたことから、午前中、アニメ映画「機動戦士ガンダム THE ORIGIN誕生 赤い彗星」を見ました。映画の最後に出てくるフラウ・ボゥとカツ、レツ、キッカの水遊びをするシーンに心が癒されました。
 午後からは長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会へ顔を出しました。
 下の写真がそれで、今月はいつもの教室ではなく、講座室です。
 

 講座の始まる前には、長谷川先生と今週末、そして来週の2つの円空さんに関する打ち合わせでした。

2018年5月6日日曜日

vol.1628 墓石に刻む言葉

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 先に書いておきます。
 以下の文章は本音で容赦なく書いたことから、お読みになって、せっかくの休日にもかかわらず、不快に感じる人がいらっしゃると思いますので、その点は重々お断りしておきます。

 こんな時代だからこそなのか、とりわけ高齢者の人たちに、外国人墓地が密かな人気の観光地になっていると知った。が、僕は別に驚きもしなかった。
 若かりし頃、僕は外国人墓地へ行き、墓石に刻まれている言葉を読んでみたい、と足を運んだ。思えば、その頃から僕の言葉に対する感覚は他人と全く違っていたのだろう。
 日本人の墓石ならば、刻まれる言葉は「南無阿弥陀仏」などが挙げられる。外国人(キリスト教信者)のそれには『聖書』の一節が刻まれると知って、いかにも信仰心があつい(目覚めた)ようで、少なからず感動を覚えたのだった。
 僕がもしもキリスト教信者で、墓石に刻むとしたら、次の言葉にしたい。

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。」(『ヨハネによる福音書』第三章第八節)
 

 もっとも僕には子どもがいないことから、周囲の親しい人たちには、「悲惨な孤独死は自業自得で、人はひとりで死んで行くことから(僕はちゃんと阿弥陀様の元へ行けるから)、葬式も戒名もお墓も必要ない」と断言している。だから、上の言葉は例えるとしたら、絵に描いた餅のようなものだ。
 話題を戻すと、薄情ながら、心の底から嫌いな老人(理由は酷い嫌がらせを受けた)が死んだと聞き、僕は実に清々した気持ちになり、両手を挙げて「万歳」と声を上げたことがある。人間なんて、どんなに偉そうなことを言ったりしてみても、本心は隠せはしない(これを読んでいるあなただって、そうだろう。聖人でもないかぎり、違うとは決して言わせない)。
 そんな僕ではあるけれど、昨年春、いじめを苦に自殺した男子中学生が「『僕が死んでも誰も悲しまない』などと打ち明けていた」といったことを新聞で読んで、実に悲しかった。亡くなった男子中学生とその遺族に無力な自分は掛ける言葉が見つからない。

 以下は余談。
 数日前から右目上の瞼(まぶた)がピクピクと痙攣(けいれん)する。寝不足と対人ストレス(気遣い)が原因だ。

2018年5月5日土曜日

vol.1627 『ヨハネによる福音書』第二〇~二一章(自己解説)

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 前々回の更新(vol.1625)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第二〇~二一章について。
 『ヨハネによる福音書』の話題については、これまでに計10回に分けて書いてきましたが、とうとう最後になりました。

 第二〇章
 三〇 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子(でし)たちの前で行われた。
 三一 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

 第二一章
 一八 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
 二〇 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
 二四 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
 二五 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
 

 イエスの愛しておられた弟子が自分自身のことを書いている。なるほどイエスの言葉はイエスの愛しておられた弟子の言葉であった。そして、僕も筆者であるイエスの愛しておられた弟子のように自分の胸の奥に残ったものについて、知らず知らずのうちに書いていたことになる。
 イエスの愛しておられた弟子は最後に「(イエスが行ったしるしについて)世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」と締めくくっている。僕は収めきれない文章をもっと読んでみたいと思う。「アァメン」。

 以下は余談。
 今、これを書いているのは午前5時だ。寝坊して、午前4時に名前を呼ばれ、目が覚めた。

2018年5月4日金曜日

vol.1626 円空さんとピアノコンサート 中川文化小劇場

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 昨日は名古屋市中川区にある中川文化小劇場で行われた「円空さんとピアノコンサート」を見てきました。
 下の写真は長谷川公茂先生による円空歌集の解説です。
 

 下の写真は栗本のりこさんによる円空歌集の朗読です。
 

 中川文化小劇場の控室では、被爆ピアノを調律されている矢川様から、貴重なお話を聞かせていただきました。また、昨年と同様(vol.1451)、中川区長様にもお目にかかりました。
 文末になってしまいましたが、主催者である中川文化小劇場や荒子の里協議会といった関係者の皆様には、大変お世話になりました。この場を借りて、深くお礼申し上げます。

2018年5月3日木曜日

vol.1625 『ヨハネによる福音書』第一六~一九章(自己解説)

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 前々回の更新(vol.1623)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一六~一九章についての話題。

 第一六章
 二一 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。
 二二 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。
 

 第一九章
 二八 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
 二九 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

 上に引いた文章に対して、僕は軽々しく言葉を挟めないし、その資格もない。
 残すところ、第二〇~二一章となった。
 ゴールデンウィークにいつもはできないことをしたいと思い、『聖書』、この場合、『ヨハネによる福音書』を(僕なりに)読み込んでいる。果たして数多くいるキリスト教信者の内、何人がゴールデンウィークを享楽的に過ごさず、『聖書』に目を通したのであろうか。

 以下は余談。
 今、午前4時半だ。雨はしばらく前から止んでいる。が、空を見上げても、月も星も見えない。外は生暖かい空気に包まれている。と、また雨が降り出してきた。そして、空が少しずつ明るくなっていく。

2018年5月2日水曜日

vol.1624 メンズの小物 愛用のシューホーン(靴べら)

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 過日、男性が毎日のように身につける小物の話題になりました。腕時計やベルト、名刺入れなど、いろいろと挙がりましたが、僕の場合、基本的に手ぶらで、腕時計、万年筆、ライターは持ち歩いていません。
 理由としては、腕時計は「今、何時ですか」と、他人に話し掛けるきっかけとするためです。万年筆は消せないことから、(取材の際は)鉛筆です。ライターはタバコを吸いません。
 逆に、というべきか、他の男性があまり持参しないとおぼしき小物を身につけています。
 その1つがシューホーン(靴べら)。
 

 数年前からの使い込んだ革製品ということで、それなりの味を醸し出していると思うのですが、それに比例して、金属部分の輝きがどうしても失われて行くことから、そろそろ買い替え時期なのかな、と。

 以下は余談。
 昨日の午前中は長谷川公茂先生が講師を務める一宮円空会の社会科見学に参加。同時に長谷川先生の写真撮影もお手伝いしました。

2018年5月1日火曜日

vol.1623 『ヨハネによる福音書』第一五章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1622)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一五章について。

 五 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

 一二 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
 一三 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
 

 『ヨハネによる福音書』には、イエスの言葉として、上のように記しているけれども、僕が知るかぎりの狭い範囲では、残念ながら、悲しいかな、キリスト教信者は皆、それを実践していない(ように目に映っている)。
 皮肉にも、その反対のことばかりをしている。友だちを助けないし、小さな愛しかない。つまり、ユダのようにイエスを裏切っている。そう書いたら、お叱りを受けるだろうか。
 これを読んで、「それは違うぞ」という反対意見の人がいたら、あるいは「蟻の街のマリア」と呼ばれた北原怜子さんのような人が今もいるとしたら、ぜひ会ってみたい。
 参考までに、僕は6年前の冬にカトリック潮見教会へ足を運んで、北原怜子さんの銅像と石碑を目にしました。

 以下は余談。
 今、午前3時だ。窓から夜空を眺めれば、月がきれいに輝いているのを目にした。
 今日から5月で、世間はゴールデンウィークだけれども、僕には何の関係もない。連日、午前2時過ぎに起床して、これを書いている。