ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
前々回の更新(vol.1620)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一三章については、ユダについて記された箇所がどうしても気になります。
二 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
二一 イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
二二 弟子(でし)たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。
二三 弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。
二四 そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
二五 その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、
二六 イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
二七 この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。
同章のユダについて記された箇所以外に、イエスの言葉で僕の心に残ったのは以下の一文。
一五 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
お手本があるならば、後はそれを模倣するかどうか。そして、模倣の先には、とここまで書いて、学生時代に勉強したガブリエル・タルド(1843~1904)を僕はふと思い出した。
続けて、『ヨハネによる福音書』第一四章については、イエスがどれだけ偉大であったかを感じさせます。
九 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
一七 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
二七 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
イエスは「平安」を残し、与える。それによって、心を騒がすことも、おじけることもない。何と力強いのだろう、と。
「楽は下にあり」を信条とする僕には、名誉欲とか、そうした類は微塵もないけれど、自分が生きた証として、イエスが与える平安のようなものが残せたなら、何と素晴らしいことだろう、と心の底から思う。
僕が大好きな円空仏は、その微笑みを拝むだけで、拝んだ人たちが「平安」に似た気持ちになるのを知っているからだろうか。
以下は余談。
一昨日(28日)に2回、更新したことから、昨日(29日)は更新しませんでした。ブログを続けている9年間の中で、同日に2回、更新したのは、昨年の12月中旬以来、2度目のことでした。
東海地区のさまざまなスポットをレポートするコーナー。円空仏や岡本太郎、全国消防カードといった僕が大好きなものを通じて、ツーリングの楽しさを伝える、ちょっとした埋め草のようなブログです。
2018年4月30日月曜日
2018年4月28日土曜日
vol.1621 ZARAのノベルティ オリジナル風呂敷&リングセット
ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
今日は栄へ行きました。
お昼前、名古屋パナソニックビルの屋上にある看板に設置された温度計を見上げると、下の写真にあるように気温が23度となっていました。
例によって、ZARA名古屋店で買い物(スニーカーとTシャツを購入)をしたら、「4/28(土)から4/30(月)の期間中お買い上げのお客様にオリジナル風呂敷&リングセットをプレセント」ということで、下の写真にあるように僕もゲットしました。
リングを用いた風呂敷バッグは色といい、柄といい、僕には使えないことから、姪っ子にあげたいと思います。
今日は栄へ行きました。
お昼前、名古屋パナソニックビルの屋上にある看板に設置された温度計を見上げると、下の写真にあるように気温が23度となっていました。
例によって、ZARA名古屋店で買い物(スニーカーとTシャツを購入)をしたら、「4/28(土)から4/30(月)の期間中お買い上げのお客様にオリジナル風呂敷&リングセットをプレセント」ということで、下の写真にあるように僕もゲットしました。
リングを用いた風呂敷バッグは色といい、柄といい、僕には使えないことから、姪っ子にあげたいと思います。
vol.1620 『ヨハネによる福音書』第一〇~一二章(自己解説)
ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
前回の更新(vol.1619)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一〇~一二章について。いささか駆け足気味ながらも、とりわけ第一二章の話題に触れたい。その理由は後ほど。
第一〇章
一六 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
一七 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
一八 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
第一一章
四一 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
四二 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
四三 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
四四 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
第一二章
三 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
四 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
五 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
六 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
七 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
二七 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
二八 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
三五 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
三六 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。
つい長々と引用したが、そのいずれもが僕の胸に響く言葉である。とりわけ第一二章は僕が『聖書』、この場合は『ヨハネによる福音書』を深く読むきっかけとなったのである。少し前の更新(vol.1606、vol.1608)でも書いたけれど、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に、それが出てくる。
二四 よくよくあなたがたに言っておく、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
『ヨハネによる福音書』の中から、上記はドストエフスキーが選んだイエスの言葉で、下記は(今の)僕が選んだイエスの言葉。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない(第三章八節)。
イエスが語る数ある中から選んだ言葉には、その人の人生観が凝縮されているのだ、と。
前回の更新(vol.1619)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一〇~一二章について。いささか駆け足気味ながらも、とりわけ第一二章の話題に触れたい。その理由は後ほど。
第一〇章
一六 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
一七 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
一八 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
第一一章
四一 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
四二 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
四三 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
四四 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
第一二章
三 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
四 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
五 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
六 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
七 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
二七 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
二八 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
三五 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
三六 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。
つい長々と引用したが、そのいずれもが僕の胸に響く言葉である。とりわけ第一二章は僕が『聖書』、この場合は『ヨハネによる福音書』を深く読むきっかけとなったのである。少し前の更新(vol.1606、vol.1608)でも書いたけれど、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に、それが出てくる。
二四 よくよくあなたがたに言っておく、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
『ヨハネによる福音書』の中から、上記はドストエフスキーが選んだイエスの言葉で、下記は(今の)僕が選んだイエスの言葉。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない(第三章八節)。
イエスが語る数ある中から選んだ言葉には、その人の人生観が凝縮されているのだ、と。
2018年4月27日金曜日
vol.1619 『ヨハネによる福音書』第九章(自己解説)
前回の更新(vol.1618)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第九章について。
第九章
五 わたしは、この世にいる間は、世の光である。」
六 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた。
七 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
二〇 両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
二一 しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
四一 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
上記の文章を読んだ後、僕自身は目が見える大人だけれども、イエス(「世の光」)がちゃんと見えているのかと、いつも自問自答してしまう。
あなたにはイエス(「世の光」)が見えますか。
以下は余談。
今日は所用で岐阜県の某所へ行き、午後、岐阜市内を走ったことから、美江寺観音を久しぶりに参拝して、短い時間ながら、ご住職様と楽しくお話させていただきました。
美江寺観音はブログにも書いているとおり(vol.682、vol.698など)、5年前から円空仏の関係で、たびたびお世話になっています。参考までに記すと、美江寺観音の円空仏は毎月18日にご開帳されます。
第九章
五 わたしは、この世にいる間は、世の光である。」
六 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた。
七 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
二〇 両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
二一 しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
四一 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
上記の文章を読んだ後、僕自身は目が見える大人だけれども、イエス(「世の光」)がちゃんと見えているのかと、いつも自問自答してしまう。
あなたにはイエス(「世の光」)が見えますか。
以下は余談。
今日は所用で岐阜県の某所へ行き、午後、岐阜市内を走ったことから、美江寺観音を久しぶりに参拝して、短い時間ながら、ご住職様と楽しくお話させていただきました。
美江寺観音はブログにも書いているとおり(vol.682、vol.698など)、5年前から円空仏の関係で、たびたびお世話になっています。参考までに記すと、美江寺観音の円空仏は毎月18日にご開帳されます。
2018年4月26日木曜日
vol.1618 『ヨハネによる福音書』第七、八章(自己解説)
ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
前々々回の更新(vol.1614)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第七章と第八章について。
第七章
一八 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。
第八章
六 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
七 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
五七 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
五八 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
イエスは地面に何をお書きになられていたのか。僕にはとんと分からない。ただし、僕にはイエスの行動(の意味)が分かる。なぜなら、僕も同じだから。
「昨日の記憶」や「今日の記憶」と題して、過去にブログで何度も書いたとおり、ただ文字を書くという行為に没頭するだけだ。別段、書道家のように書いたりするのではなく、ただ文字を繰り返し呪文を唱えるように書き続けるのだ。
そして、僕はあと数年で、悲しいかな、馬齢を重ねて、五十歳になる。
以下は余談。
いつもお世話になっている「円空仏彫刻・木端の会」のM様から素敵な詩を紹介していただきました。
下の写真がそれで、渡辺和子著『美しい人に』(PHP研究所)に載っているとのこと。
前々々回の更新(vol.1614)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第七章と第八章について。
第七章
一八 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。
第八章
六 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
七 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
五七 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
五八 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
イエスは地面に何をお書きになられていたのか。僕にはとんと分からない。ただし、僕にはイエスの行動(の意味)が分かる。なぜなら、僕も同じだから。
「昨日の記憶」や「今日の記憶」と題して、過去にブログで何度も書いたとおり、ただ文字を書くという行為に没頭するだけだ。別段、書道家のように書いたりするのではなく、ただ文字を繰り返し呪文を唱えるように書き続けるのだ。
そして、僕はあと数年で、悲しいかな、馬齢を重ねて、五十歳になる。
以下は余談。
いつもお世話になっている「円空仏彫刻・木端の会」のM様から素敵な詩を紹介していただきました。
下の写真がそれで、渡辺和子著『美しい人に』(PHP研究所)に載っているとのこと。
2018年4月25日水曜日
vol.1617 「懐かしい」という言葉の時間差は重みである
ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
前回の更新(vol.1616)からの続きて、昨日の午前中は長谷川公茂先生と楽しい円空談義でした。
会話の最中、「懐かしい」という言葉が出ました。
下の写真は僕が愛用している『ベネッセ表現読解国語辞典』で、「懐かしい」の項目です。
例文には、「学生時代が懐かしい」とあり、僕自身も、例えばブログの中において、そうした表現で、過去に何度も使っています。
しかしながら、長谷川先生の口から出た「ああ、懐かしいですね」は僕が生まれる以前(50年以上前)のことで、僕の口から出る「学生時代が懐かしい」は約25年前。同じ単語でありながら、その時間は四半世紀も違っていました。
至極当然のことながら、長谷川先生と僕とでは、いわゆる「言葉の重み」が違うということ。
以下は余談。
某寺蔵の円空仏について、僕は人一倍、詳しいと自負していたけれど、知らないことが出てきた。それについての悉皆調査をした資料や『円空研究』などを手当たり次第、読んでみたのだが、載っていない。調べてみても、一向に分からなかったので、長谷川先生にお聞きしたところ、やはりご存じであった。「逆立ちしても」というのは、こういうことを指すのだろうと。
前回の更新(vol.1616)からの続きて、昨日の午前中は長谷川公茂先生と楽しい円空談義でした。
会話の最中、「懐かしい」という言葉が出ました。
下の写真は僕が愛用している『ベネッセ表現読解国語辞典』で、「懐かしい」の項目です。
例文には、「学生時代が懐かしい」とあり、僕自身も、例えばブログの中において、そうした表現で、過去に何度も使っています。
しかしながら、長谷川先生の口から出た「ああ、懐かしいですね」は僕が生まれる以前(50年以上前)のことで、僕の口から出る「学生時代が懐かしい」は約25年前。同じ単語でありながら、その時間は四半世紀も違っていました。
至極当然のことながら、長谷川先生と僕とでは、いわゆる「言葉の重み」が違うということ。
以下は余談。
某寺蔵の円空仏について、僕は人一倍、詳しいと自負していたけれど、知らないことが出てきた。それについての悉皆調査をした資料や『円空研究』などを手当たり次第、読んでみたのだが、載っていない。調べてみても、一向に分からなかったので、長谷川先生にお聞きしたところ、やはりご存じであった。「逆立ちしても」というのは、こういうことを指すのだろうと。
2018年4月24日火曜日
vol.1616 長谷川公茂先生は現代に生きる円空さん
ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
今日の午前中は長谷川公茂先生とお会いして、円空さんに関する打ち合わせでした。
打ち合わせの後、喫茶店へ行き、下の写真にあるように少し遅いモーニングを食べながら、長谷川先生との楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
円空さんに関しては、長谷川先生しか知らないこと、長谷川先生に教わらないと分からないことだらけで、教わったことはすべて僕のかけがえのない財産です。
長谷川先生は僕が生まれる前から円空さん一筋ですから。まさに現代に生きる円空さんと言っても過言ではありません。
今日の午前中は長谷川公茂先生とお会いして、円空さんに関する打ち合わせでした。
打ち合わせの後、喫茶店へ行き、下の写真にあるように少し遅いモーニングを食べながら、長谷川先生との楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
円空さんに関しては、長谷川先生しか知らないこと、長谷川先生に教わらないと分からないことだらけで、教わったことはすべて僕のかけがえのない財産です。
長谷川先生は僕が生まれる前から円空さん一筋ですから。まさに現代に生きる円空さんと言っても過言ではありません。
2018年4月23日月曜日
vol.1615 全国消防カードのトレード(交換)
ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。
久しぶりに公共配布カードの話題を。
ブログをお読みいただいていたr51様から、全国消防カードをトレード(交換)していただきました。
下の写真がそれで、この場を借りて、お礼申し上げます。
引き続き、公共配布カードのトレード(交換)を希望しています。詳細については、こちら をご参照ください。
以下は余談。
外はすこぶる好い天気だというのに、今日は一日、いわゆる缶詰め状態であった。惜しいことをした。パソコンに向かい、座りっぱなしで、コーヒーを何杯もおかわりした。しかしながら、今日という一日がおよそ30年先までの、既に僕は生きていないだろう未来のために役立つのだと思えば、嬉しくもある。
久しぶりに公共配布カードの話題を。
ブログをお読みいただいていたr51様から、全国消防カードをトレード(交換)していただきました。
下の写真がそれで、この場を借りて、お礼申し上げます。
引き続き、公共配布カードのトレード(交換)を希望しています。詳細については、こちら をご参照ください。
以下は余談。
外はすこぶる好い天気だというのに、今日は一日、いわゆる缶詰め状態であった。惜しいことをした。パソコンに向かい、座りっぱなしで、コーヒーを何杯もおかわりした。しかしながら、今日という一日がおよそ30年先までの、既に僕は生きていないだろう未来のために役立つのだと思えば、嬉しくもある。
登録:
投稿 (Atom)