2017年12月12日火曜日

vol.1544 恋愛の瞬間

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 僕は悲しいかな、一目惚れをした経験がない。誰しも(僕にも)好みのタイプがあるはずだと思うけれど、今まで付き合った異性たちを振り返ってみても、彼女たちには共通項(髪型、顔立ち、声、体形など)がない。だから、相手のどこに魅かれたのか(「私のどこが好きか」)と問われたり、体か心かの二者択一ならば、答えは決まっている。僕の人生はこれからも恋に落ちるという経験のないまま、過ごすことになるのだろう。
 過去の失敗を含んで鑑みると、僕の恋の形は胸が痛くなる、僕の愛の形は相手を信じ抜く、といった形で、いささか不器用なのかもしれない。他の人のことは分からないけれども、僕も僕なりに女性に対して、耳元で甘い言葉を囁いたり、食事をしたり(二十歳を過ぎてからは、お酒の力を借りたり)といった様々な手段や駆け引き(これ以上は具体的には書けません)をした。もちろん、相手を喜ばせたいという気持ちが心の底にあったことは言うまでもない。
 男女が誰でも経験するような場面(ラブシーン)をここでは書かない(そうしたことを期待されていた読者には大変申し訳ない)。というか、恥ずかしくて書けない。世間には男性が女性の心をよく分かって、それを書いた文章も多々あるけれど、僕にはそのような文才はない。ましてや、彼女たちと出会って、関係を結んで、別れたといった自身の経験は、僕の大切な思い出であって、他人(読者)とは共有できない。
 余計なことだけれども、現代日本の恋愛は残念なことに物質主義の檻に閉じ込められているようで、明治や大正といった一昔前の頃と比較して、(とりわけ女性は)ずっと自由になったはずが、別の不自由に陥っている(そうした時代には、男と女は結婚するものという大前提を疑う余地はなく、当時の女学生たちは男女交際しただけで揶揄され、非難された)。また、当時の女性に対する「奥ゆかしい」といった褒め言葉も今や死語かもしれない。
 最後に僕の場合、恋愛に関しては墓場まで持って行かなければならない情事があって、結婚に関しては独身だから何一つ語る資格がありません。

 以下は余談。
 長谷川泰子述・村上護編『ゆきてかへらぬ』には、下のような文章があって、思い出すたびに僕の胸に迫るものがあります。
 
 その人は傘を持たず、濡れながら軒下に駆けこんで来て、私を見るなり、「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。私はハッとして、その人を見ました。(中略)その人は雨の中から現われ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。

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