2018年5月6日日曜日

vol.1628 墓石に刻む言葉

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 先に書いておきます。
 以下の文章は本音で容赦なく書いたことから、お読みになって、せっかくの休日にもかかわらず、不快に感じる人がいらっしゃると思いますので、その点は重々お断りしておきます。

 こんな時代だからこそなのか、とりわけ高齢者の人たちに、外国人墓地が密かな人気の観光地になっていると知った。が、僕は別に驚きもしなかった。
 若かりし頃、僕は外国人墓地へ行き、墓石に刻まれている言葉を読んでみたい、と足を運んだ。思えば、その頃から僕の言葉に対する感覚は他人と全く違っていたのだろう。
 日本人の墓石ならば、刻まれる言葉は「南無阿弥陀仏」などが挙げられる。外国人(キリスト教信者)のそれには『聖書』の一節が刻まれると知って、いかにも信仰心があつい(目覚めた)ようで、少なからず感動を覚えたのだった。
 僕がもしもキリスト教信者で、墓石に刻むとしたら、次の言葉にしたい。

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。」(『ヨハネによる福音書』第三章第八節)
 

 もっとも僕には子どもがいないことから、周囲の親しい人たちには、「悲惨な孤独死は自業自得で、人はひとりで死んで行くことから(僕はちゃんと阿弥陀様の元へ行けるから)、葬式も戒名もお墓も必要ない」と断言している。だから、上の言葉は例えるとしたら、絵に描いた餅のようなものだ。
 話題を戻すと、薄情ながら、心の底から嫌いな老人(理由は酷い嫌がらせを受けた)が死んだと聞き、僕は実に清々した気持ちになり、両手を挙げて「万歳」と声を上げたことがある。人間なんて、どんなに偉そうなことを言ったりしてみても、本心は隠せはしない(これを読んでいるあなただって、そうだろう。聖人でもないかぎり、違うとは決して言わせない)。
 そんな僕ではあるけれど、昨年春、いじめを苦に自殺した男子中学生が「『僕が死んでも誰も悲しまない』などと打ち明けていた」といったことを新聞で読んで、実に悲しかった。亡くなった男子中学生とその遺族に無力な自分は掛ける言葉が見つからない。

 以下は余談。
 数日前から右目上の瞼(まぶた)がピクピクと痙攣(けいれん)する。寝不足と対人ストレス(気遣い)が原因だ。

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