2018年5月3日木曜日

vol.1625 『ヨハネによる福音書』第一六~一九章(自己解説)

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 前々回の更新(vol.1623)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第一六~一九章についての話題。

 第一六章
 二一 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。
 二二 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。
 

 第一九章
 二八 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
 二九 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

 上に引いた文章に対して、僕は軽々しく言葉を挟めないし、その資格もない。
 残すところ、第二〇~二一章となった。
 ゴールデンウィークにいつもはできないことをしたいと思い、『聖書』、この場合、『ヨハネによる福音書』を(僕なりに)読み込んでいる。果たして数多くいるキリスト教信者の内、何人がゴールデンウィークを享楽的に過ごさず、『聖書』に目を通したのであろうか。

 以下は余談。
 今、午前4時半だ。雨はしばらく前から止んでいる。が、空を見上げても、月も星も見えない。外は生暖かい空気に包まれている。と、また雨が降り出してきた。そして、空が少しずつ明るくなっていく。

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