2018年5月21日月曜日

vol.1640 『ヤコブの手紙』(自己解説)

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 第一章
 三 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
 一四 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
 一五 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
 一九 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

 上を読んだとき、「口はひとつ、耳はふたつ」とのことわざを思い浮かべた。語るよりも聞くことがコミュニケーションの基本だと、僕に教えてくれたのは、いつも年上の女性だった。

 第三章
 一 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
 二 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
 三 馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。
 四 また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
 五 それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
 六 舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
 七 あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。
 八 ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。
 九 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
 一〇 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。

 僕は教師という職業を微塵も尊敬しない。僕がこの世で初めて出会った悪い大人(不正な他人)は小学校の担任教師であった。僕が何事に対しても、これだけは譲れない条件の一つとして、師匠(上司や先輩も)を選ぶのは、そうした理由からだ。
 これをひっくり返して言えば、素晴らしい先生を見つけることが、学ぶこと(上達)の秘訣で、他には何もいらない。さらに言えば、「学ぶこと」を「生きること」に置き換えても、同じ意味になる。
 たとえば、円空さんを知りたいならば、長谷川公茂先生の教えがすべてで、「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候(『歎異抄』)」と記されている法然上人と親鸞聖人のように。
 このところ、『聖書』に関する更新が続いているけれど、『歎異抄』の素晴らしさについては、いつか機会があれば、書いておきたいと、常々思っている。
 話題を戻して、率直に書くと、僕にとって、『ヤコブの手紙』は第三章に収斂される。幾度も読み返しては、自戒とする箇所が第三章だから。
 「舌は火である。不義の世界である」ということは、自分自身が発する言葉は慎重に選んで、大事に使いたい。
 

 第五章
 一五 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。

 以下は余談。
 少し前の更新(vol.1632)でも書きましたが、『聖書』に目を通すだけで、実に日本語の勉強になります。学が無い僕は『聖書』に書かれていた「煩勞(いたづき)」という言葉を初めて知りました。

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