2018年6月20日水曜日

vol.1667 続 ブルトマン著「福音書の考察若干」(1928/30年)を読んで

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 前回の更新(vol.1666)からの続きで、ブルトマンの論文「ヨハネ福音書の考察若干」におけるBの「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」について。
 論文は杉原助訳『ブルトマン著作集7』聖書学論文集1(新教出版社)に収録されています。
 

 前回の更新(vol.1666)で取り上げたAの「真理」と、今回取り上げるBの「神を見た者はまだひとりもいない(ヨハネ一・一八)」を比較すると、こちらが僕にとって求めている内容でした。

 神が現われることがあっても、その場合もその顕現は秘密に包まれている。彼は姿を人間に変えてしか現われないし、その真の本質を何となく感じとらせるだけである。忽然とその姿が消えるので、最後になって、出会った相手が神であったとわかるのである(本書290ページ引用)。

 『ヨハネによる福音書』
 四・二六 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
 八・二五 そこで彼らはイエスに言った、「あなたは、いったい、どういうかたですか」。イエスは彼らに言われた、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。
 九・三七 イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
 一四・九 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

 つまり、神を見ることができない理由は、科学的にでなく、宗教的に考えられているのである(本書291ページ引用)。
 人間は誰も神を見ることはできない。なぜなら、同一物は同一物によってしか認識されないからである。したがって、神を認識したいと思う者は、新しい目を与えられ、変えられねばならない(本書295ページ引用)。

 僕が思うに、神は(当然ながら)見えないのだ。だから、神を内面化して、確信すれば、啓示によって、いつでもどこでも見えるのだ、と気がつきました。
 『ヨハネによる福音書』にも、確かにそう書かれています。
 それは「光」である、と。

 『ヨハネによる福音書』
 八・一二 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 九・五 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
 一二・三五 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
 一二・三六 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

 最後に、僕から付け加えておくことがあるとしたら、ブルトマンは1884年生まれだから、46歳の時に発表した論文であり、以前の更新(vol.1654、vol.1655、vol.1656)で取り上げた『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局)の予備研究であることは言うまでもない。

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