2018年6月27日水曜日

vol.1674 『聖書』とブルトマンの著作を読んでいる理由

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 前回の更新(vol.1673)に関連して、僕が『聖書』とブルトマンの著作を読んでいる理由について。
 まず、これを先に書いておくのが正しい順番であった、と反省。さらに前回の更新(vol.1673)の前置きだけでは、読者に対して言葉が足らない、とのこと。
 たとえ分からなくても、何度も読み返して、自分なりに理解することが大事なのだ。分かったときの喜びは大きいし、真の勉強とは自分のためにするのである。間違っても(大学や国家資格などの)試験に合格するためにするものではない。ましてや偏差値は人生の指針ではない。
 少し話題が逸れるけれども、先手を打っておきたい。例えば、医学部の入試に合格するのは大変だけれども、病気を治すことができるのは医者とは限らないというのが僕自身の経験だ。また、医者に掛かっても、治らなかった人を僕は身近に何人も知っている。
 死は病気じゃないから、誰にも治せない。『ヨハネによる福音書』第一一章に記されているラザロを甦らせたイエスの奇跡を読んだときは素直に感動した。本を読んで感動する心は真の勉強によって養われるが、歳を重ねることに難しくなる(自明の理)。錆びついた心を治すのはもちろん医者ではない。
 そして、冒頭の話題に戻る。もし分からなければ、何度でも読み返せばいい。人生も同じだ。
 

 『ヨハネによる福音書』
 第一一章
 四三 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
 四四 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

 仮にあなたの愛する人が、寿命ではなく、不慮の事故等で若くして亡くなり、もしも生き返ったとしたら、その感動は奇跡と呼ぶ以外に、おそらく言葉にはできないであろう。

 以下は余談。
 今日読んだ本は藤代泰三著『キリスト教史』(講談社学術文庫)と加藤隆著『「新約聖書」の誕生』(講談社学術文庫)です。
 


 4月中旬から、これだけ多くのキリスト教関係の本に目を通していると、まるで神学部の学生になったような気分になります。

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